アッパーストラクチャーでの感情表現-3 2022/2/25掲載
赤松敏弘meetsハクエイキムw市原ひかり、小山太郎SPB @ みなとみらいホール
たとえ私たちには見えない何かがあろうとも、戦争には断固として反対だ。
言い分はしかるべき場所で述べるべきで、振り上げた拳を如何にして下ろすのかを今は考えるべきだ。戦争ほど愚かな環境破壊はない。
音楽は感情表現の一つだから、その用法論は人間の感情と結び付いているはず。
パズルやゲームのように音を並べて悦に入るのも悪くはないけど、なぜこの音で自分は楽しくなったり、ワクワクしたり、悲しくなったりするのだろう? と言う事と理論を結びつけて検証すると、自分の視線から全世界の音楽を見渡すことが出来る。残念ながら音楽教育機関でそこのところを独自のやり方で教えているところは・・・・・殆ど無い。
長3度や短3度が、明るい・暗いの区別はあってもその先に広がる感情表現のストーリーに結び付けた方法論にまだ出会っていない気がする。
ジャズの世界に存在するハーモニーとメロディーの分析システムと感情表現がうまくリンクすれば、とても面白い事が手に取るようにわかるかも知れない。そんなテーマの中で、サウンドがある特定のキャラクターと結び付く事象について。
演奏中にリディアン・フラットセブンスのサウンドに触れると僕は自分の感情の中で高揚した気分が広がることは以前に説明した。
このリディアン・フラットセブンスというサウンドで、思い浮かぶ人物がいる。
セロニアス・モンクだ。
昔、タモリさんが「誰でも弾けるチック・コリア」というネタでペンタトニックを使った音列を和音にしたり、メロディーにしたりしながら、左手でリズミックなパターンを弾いて爆笑を誘っていた。実に的を得た「モノマネ」で、その頃の高校生で音楽に興味がある人は皆真似をして遊んだはず。
そう、「モノマネ」。
ある人の音的な特徴を真似て遊ぶことがインストの世界でも出来るのだ。(モノマネは歌ばかりではない)
大切なのはこれは遊びである、という自覚。
もしもこれが学問である、と勘違いしたら少々悲劇だ。
「モノマネ」には感情がある。それは言葉で100%言い当てられないけれど、特徴を交えて周囲に同意が得られたら成功ということになる。そこで真似しているものは音使いという感情表現。「なりきったつもり」で認められたら成功。ただし、あくまでも「なりきり」だから元がある。音列だけを真似するのはコピーでも何でもすれば出来たような気になるけど、問題はその音らに「感情があるか?」ということ。なのでもしもコピーをするのであれば、そこまでコピーして欲しいのだけど、大体の場合にもう本人がこの世にいないから確認のしようがない。
セロニアス・モンクの話し。
僕はセロニアス・モンクという人の音楽が好きか、嫌いか、どっち? と言われると迷ってしまう。
好きな部分は演奏するとたくさん湧いて来る。しかし聞いている限りではその曲の良さになかなか気付きにくい。どうやら作曲者としてのセロニアス・モンクにはとてもシビれているのに、ピアニストとしてのセロニアス・モンクには無条件で心を許せない、みたいな感じ。
でも、リディアン・フラットセブンスというサウンドは僕の中では紛れもなくセロニアス・モンク。
アッパー・ストラクチャー・サウンドとしてリディアン・フラットセブンスを表現すると、Cを分母とするならば・・・
D/C7
となる。
つまりC7の上にDのトライアドを乗っける、というストラクチャー。
このサウンドをメロディーに挿入すると僕は気持ちが高揚する、と説明している。
で、面白いことに、メロディーとしてイメージしたリディアン・フラットセブンスにはあまりセロニアス・モンクの印象は無い。
ところがブロックコード的にC7の上にDトライアドを乗せた状態で弾いたり、CトライアドとDトライアドの隣り合う音を重ねたりすると、途端にセロニアス・モンクが浮かび上がる。
まず左の二小節のように三つのセブンス・コードを均一な間隔で並べます。
ベースがC、A、F# と短三度で下降。
さて、ここで右の二小節のように、それぞれのコードの #11th の音を足します。
すると、これがセロニアス・モンクが奏でるサウンドの印象に。
もう少しリズミックにしてみましょう。
タモリさん風に言えば、「誰でも弾けるセロニアス・モンク」、という事になります(笑)
作曲者としてのセロニアス・モンクにはとてもシビれているのに、ピアニストとしてのセロニアス・モンクには無条件で心を許せない、というのがこの辺りにあるのだと思うのです。
つまり、モンク氏が自分でピアノを弾くと「こうなろ」というもの。
たとえば、こんな具合。
気が付いたのです、この人はハーモニー的開拓派だと!
有名なエピソードに、トランペットのマイルス・デイビスがセロニアス・モンクと一緒に演奏した時に、どうしてもサウンドがブレンドしないので自分のソロの時はバックで弾かないで、と伝えたと。
様々に解釈されて面白おかしく伝説として伝わっていますが、おそらく特徴のあるモンクのブロックコードの伴奏が自分のアイデアとぶつかってしまうのを回避する手段だったのでは、と。
だって、マイルス・デイビスもハーモニー的開拓派でしたから、セロニアス・モンクの才能を人一倍高くかって理解していたのだと思います。
セロニアス・モンクの作品では、2005年のアルバム『Focus Lights』(VME)で“Ruby,My Dear”を取り上げたことがあります。このアルバムは「昔のジャズはカッコよかったか!?」というテーマで制作。その時に改めてセロニアス・モンクの曲と格闘した結果、彼がやらなかった6/8拍子に変換して演奏すると、とんでもなくモダンでコンテンポラリーな曲に変身したことに驚きました。セロニアス・モンクという人の描いた音楽がどれだけ先進的だったのかを知るよい機会でした。以来、作曲者としてのセロニアス・モンクにはとてもシビれているのに、ピアニストとしてのセロニアス・モンクには無条件で心を許せない、というのを当たり前として自分の中にしまっています。
アッパー・ストラクチャー・サウンドとして、どのように「演奏」すべきかは、そこで自分がどのような「感情」で演奏しているのに絞られると、セロニアス・モンクの例のように感情表現としての個性に結びつくという繋がりが見えて来ます。
|