Column-音楽体験記

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●音楽体験記-1
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ジャズとの出会い、ゲイリー・バートン氏との出会い、ヴァイブとの出会い[1]・・赤松敏弘

誰にでも一生の内に大きな影響を受ける人がいる。そんな人との出会いを振り返る歳にはまだ早いが、ほんの些細な切っ掛けがその後の自分を形成するなんて、人生は楽しいと思いませんか?

よく「なぜヴァイブを選んだのか?」って聞かれる事がある。そう、それって人から見て結構切っ掛けがなきゃ今までやって無い事だからなかなか興味ありますよね。まず、僕の場合はこんなところから始まります。だらだらと書きます。

◇第一次接近遭遇  時期は1960年代後半になろうと言う頃、風邪をひいた小学生がいました。今日は学校を休み寝ています。まぁ、ただ寝てるのもなんだからテレビをつけて寝てました。朝の10時前の事。夏休みでもない限りこんな時間のテレビなど小学生が見るハズもなく、モーニング・ショーとやらをあまり意味も分からずに見てました。すると番組の最後の頃になって突然その小学生が興味を持つコーナーが訪れる事に。

何でも今日から来日しているジャズのナントカさんがゲストで出演するそうで、なにやら演奏が始まりました。大人の会話は分からなくても音は子供にだって聞こえてくるわけ。
風邪でモーローとした頭にポロンポロンと響く楽器。その時は木琴と思ったのですが、鍵盤が金色にピカピカ光ってるのが印象的。

その内そのポロンポロンの人が一人でソロを演奏し始めました。4つ持ったバチを何やら忙しそうに動かしている姿は画面を通して小学生に少なからず興味を与える事に。ピアノと同じ鍵盤なのに面白そう・・。この番組、別の時に見たらホッペを風船のように膨らませたトランペットの人が出てたり、後々気付いて驚く事になるのですが・・・・・・・。

◇第二次接近遭遇  

時は少しばかり進み、小学生は5年生になってました。世の中1960年代の暮れで、音楽で言えばピートルズや国内でのGSブーム(これって懐かしい表現でしょ。ガソリン・スタンドではありません)も終焉に近く、世の中ロックが台頭してました。勿論小学生もグワングワン泣き叫ぶギター大好きで家にあったギターをかき鳴らすものの鍵盤楽器以外はさっぱり要領がわからなくて、でもグワングワンのギター大好き。そんな時、実家を建て直して1階をテナントに貸したのです。

ここから偶然が始まる・・・・・。テナントが入って小学生の部屋とはその店の換気扇が至近距離となり、夜宿題でもやろうと机に向かえば、換気扇の向こうから何やら騒がしい音楽が聞こえて来るじゃないですか。最初は「うるさいなぁ」と思ってたものの、毎日聞くこの音楽は、今まで聞いた事の無い種の音楽。その内に毎回流れる曲は覚えてしまい、いったいこれは何なのか興味が膨れ上がる日々。

もう分かると思いますがテナントはジャズ喫茶だったのです。と言うからにはジャズという音楽のレコードがあるだろうと、近所のレコード店に駆け込み、ジャズのコーナーをキョロキョロ見てると店のオニイチャンが変な客とばかりにこっちを見るので、こちらから尋ねる事に。

「アノー。すみません。トランペットとサックスがン・パッ・ンパ・って演奏してるレコードありますか?」

とレコード店のオニイチャンに聞いたら、

「これか」

と視聴させてくれたのが忘れもしないリー・モーガンの「サイド・ワインダー」。
これはしめたと思い、もっともお気に入りの曲を尋ねる事に。

「じゃあ、フルートがピピッ・・ピピ・ッピッピッピと言うレコードはどれですか?」

と言うと

「そりゃこれだわ」と出してくれたのがハービー・マンの「メンフィス・アンダー・グラウンド」。

でもここで小学生は資金難に遭遇。いわゆるEP盤(つまりドーナツ盤)しか買った事のなかった小学生の資金ではLP盤の(確か)¥2.000は雲の上の数字。でも救いの神は存在した。それを察したオニイチャンが見慣れたEP盤を手に「こんなのもあるぞ」と渡してくれた。(確か)¥600。これなら小学生にも買える。バンザイ! 

ハービー・マンの「メンフィス・アンダー・グラウンド」のEP盤を手に、そそくさと家に向かう。5分後、自分の部屋にいた。興奮と期待が交互に渦巻く小学生は、若干興奮で震える手でレコードをセットしステレオのスイッチを入れ、ドキドキしながら最初の一音を待つ。

ベースの刻むパターンが自分の望んでいたパターンと一致し、フルートによるテーマが始まる。もはやこの興奮は誰にも止める事はできない。刻一刻と小学生の最も望むアノ音が現実に近付いてくる。フルートはソロを取り、何故か舌打ちをしながら迫り来る至高の時を逸る気持ちをおさえて待つ。もはやこの小学生の興奮は誰にも止められない。さぁ。待ちに待ったアノ音がやって来る。

やって来る。

くる・。

く・・、

アレェ~。

終わっちゃったよ。

小学生は愕然とした。フルートがテーマに戻り、曲も終わってしまった・・・・・・・・・。

小学生が期待したもの。アノ音。それはこの曲に入ってるグワングワンのギター。何故かカットされてるわけ。つまり、メイン・アーチスト意外は完璧に編集してカットされたのがEP盤だったわけ。どうりで安いはずだ・・・と妙に納得した事を覚えている。

が。しかし、その1ケ月後、何とかひねり出した資金でLP盤を持ち蔓延の笑みを浮かべる小学生がいた。

そして、「ラリー・コリエルかぁ」「なになにゲイリー・バートンのバンドを退団したって」「ふぅ~ん」「ゲイリー・バートンかぁ」。そのLPの解説を見ながら知らず知らずの内にジャズに足を突っ込む人生が始まろうとしていた。(ああしんど)

◇第三次接近遭遇    

時は70年代に突入し、小学生は中学生になっていた。この頃になると中学生の周りにも「コルトレーンはいいねぇ」とか言う類友もいる。漢方薬局の息子で兄貴の聞いてたジャズのレコードをわんさか持っていた。そもそも彼とこんな趣味で通ずる事になるには、ある事件が発端となった。

当時、DJブームで自宅の机に向かっていてもジャズ喫茶&の終わる午前1時頃までは宿題をやりつつ耳は換気扇方向にダンボ状態で張り付く。ジャズ喫茶の音をBGMがわりにしていたものの、閉店するとやたらと静か(と、言っても酔っぱらいの叫び声やタクシーの音は朝まで続くのではあるが)になってしまう。

そこでラジオに移行するわけだ。オールナイト・ニッポンとかね。当時糸居五郎氏がよくジャズやロックの新着モノをかけてたので、マイルスの新譜とか知ればレコード店に駆け込む日々(今思い出したけど、ニッポン放送の電波をダイレクトに四国の松山で受信してたわけですね。地元の局がネットする前の事だから)。

そんな中、中学校で部活に入らなきゃならなくなった時に体育会系は似合わないから放送部にでも・・・と軽い気持ちで放送部に入った。その内、昼の給食の時間に流すBGMの選曲をまかされた。

じゃあ、と言うので家からLPを持ち出し、張り切って流す事にした。確か「ビル・エヴァンス/アンダー・カレント」と糸居五郎氏がラジオで紹介してて買ったばかりの「マイルス・アット・フィルモア」。これがいけなかった。放送室に「うるさい!」「やめろ~」の苦情電話殺到。

失意の中でなぜか漢方薬局の息子はニコニコしながら「コルトレーンの末期よりは良い状況だよ」と訳のわからぬ事を言う。その後漢方薬局の息子と、お互いの持ち合うジャズ・レコードを交換しあい、ジャズという音楽にポピュラリティーがない事を確証し二人それを楽しんだ。こんなオモロイもんヤメラレません。オシエまへん。

ある時、「卒業生の為に放送部でも何かやりなさい」とのおふれが舞い込む。でも放送部ってしゃべるだけだからねぇ。それで鉾先がこちらに向き、ピアノでも弾いてお茶を濁すか・・・とも思ったんだが、それではあまにりも・・。じゃあ、放送部って録音機材があるんだから録音したものをバックに何かやろう!という事に。

結局そんな事で動けるのは僕とエンジニアの2人。重たいオープンデッキを担いで取りあえず音楽室へ向かう。一応学校の楽器なら何でも貸してくれるのでピアノを入れた。ドラムセットがあったからドラムで簡単なリズムを入れた(これは見よう見まねでね)。後自分でやった事のある楽器って何かなぁと悩むが、クラリネットはちょっと地味(クラリネットの人ゴメンナサイ)だし、ギターは弾けないし、

と、

楽器庫を覗いてみると。あったあったこれだ!ビブラフォンがあった。これならピアノと同じ鍵盤が並んでるしペダルを踏むのもピアノと同じ。バチがあったのでちょっと叩いてみると「これなら出来るワ」と好感触。それで本番まで放送室にビブラフォンを持ち込んでポロンポロン練習の日々。いつかテレビで見た、4本持ってこうやって・・・・。いま考えるとオケを作って流して演奏というスタイルでのパフォーマンスなわけだ。このポロンポロンが、僕にもできると(勝手に)思い込んだ13才の思い出。

オマケ/その後も実家には楽器がないものの、帰り道の楽器店にビブラフォンを発見。カウンターのオネーサンに「ちょっと叩いてもいいですか?」と承諾を得てポロンポロン・・・。あっという間に1時間やそこいらは過ぎて行く。

あくる日も、そのあくる日もポロンポロンと楽器店に通う。何日も経ったある日、いつものように学校の帰りに楽器店に寄ると、あわれビブラフォンはたたまれていたのです。ショック。親に相談すると「じゃあ音高にでも入るなら買ってあげよう」という事になり、とりあえずピアノで受験する事(作陽高校音楽科の恩師の皆さんスミマセン。入ってすぐ転科するのはこの時から決めていたのです)に。

その頃に「世界の音楽」というTV番組で"ゲイリー・バートン&ロイ・エアーズ"という二人のヴァイビストが共演した。動くゲイリー・バートン氏との第一次接近遭遇でもある。そのバートン氏の演奏する姿を見る内に、何処かで見たような記憶が蘇ってきた。そう、数年前、風邪で寝ていた小学生が見たアノぽろんぽろんはバートン氏ではなかったのか・・・・。いろんなライナーノーツを調べてみると・・・・・・。

ありました。1965年スタン・ゲッツのグループで来日している。時期的にも一致するし。(ちょっと風貌は違うけど)独立してから長髪に髭でイメチェンしたそうだから。
その後実際にバートン氏に習う事になったが、この事を尋ねるのを忘れてしまった。この後、バークリーで習うまでに氏との遭遇は益々接近して行くのだが、それは次回のお楽しみとしましょう。

登場する四国?松山?行った事ない人多いでしょう。小学生が中学生になったその街ってどんなトコロか。今でも市電が街中を駆け巡り、街の真ん中の小高い山にお城があって、温泉があって、海が近くって、気候が温暖で、オモロい人が出没するちょっと変な街。まァ、いい意味でジャズな街なんでしょうね。

[1998年1月15日記]


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●音楽体験記-2
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ジャズとの出会い・ゲイリー・バートン氏との出会い・ヴアイブとの出会い

◇第4次接近遭遇...........

故郷を離れて音楽の勉強に勤しむ高校生活。って書くと随分高貴な香りがする。勿論学ぶはクラシック音楽。って書くと何かとても高尚な空気が漂う。

週の内、月水金土は通常の科目なれど火曜日は専攻楽器個人レッスンのみ、木曜日はオーケストラの授業と副科レッスンのみ。音楽科専用の寮に住み門限は午後10時なれど学校の練習室は同時刻まで学生に解放される。って書くと益々高尚で高貴な世界が展開されている印象をうける。

我が学び舎は四方を山に囲まれ大河流れる小高き丘の上にあり、空には鷹が舞い、その丘より眺望する夕陽は通るものの心を奪わずにはいられない。って書くと音楽に生きる者にとって必要な環境が全て整っているかに思える。

昼はハイドンについて語り、夜は武満についてドメスティックな音楽の検証を行い、共に暮らす僚友はファゴット、ホルンの卵達。私の持ち寄ったポール・ブレイ「オープン・トゥ・ラヴ」の静寂と閃光のピアノソロに酔いしれ、モーツァルト「ロミオ・アンド・ジュリエット」のロマンチシズムについてのホルン奏者としての見解を聞き、ストラヴィンスキー「春の祭典」冒頭のファゴットについての賞賛を述べ、ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマチック概念と12音音階の相違点にこれからのコンテンポラリー・ミュージックとジャズの模索と展開の結論を求める。

っと書くとさらに至高の域に達する高校生活が見えてくる。

これらは偽りの無い事実なんだけど、文章というものもあまり整理するとニュアンスが伝わらないものですね。整理しないでこの辺の事を書きます。

[BossaNova......BossaNova]
奇しくも今年はボサノヴァ誕生40周年だそうだ。ジャズとの出会いの中でボサノヴァほど親近感をもって接してる音楽はない。従って僕にとってのボサノヴァはジャズへの登竜門でもあり、音楽が人の心の動きに影響を及ぼす事を知ったのもボサノヴァである。そのボサノヴァに岡山の山の中で再び再会したような気分になった。

思い返せば60年代の後半はテレビドラマの音楽にボサノヴァがよく使われていた。今でこそビデオの普及で見たいドラマがあれば録画保存という手段もあるが、当時はそんなものも無く、ヒイキのドラマは運良くその時間にテレビを見る事が出来れば遭遇できるというとても願望と意志に支えられたものだった。

当時小学生なんだけどあるヒイキの番組があってそのドラマのストーリーを理解していたかどうかは定かではないが使用される音楽がとても印象に残った。いわばホ−ムコメディ−寄りのドラマで舞台はお寺、若尾あや子と藤岡たく也(もう人名も定かではない)等が出演していたTBS系のドラマで「待ってますワ」というタイトルだった。

そのクロージング・ロールで音楽/渡辺貞夫という名を見つけて渡辺貞夫という人はボサノヴァの人(当時はボサノヴァという言葉も知らなかった。なんせ小学生っス)と思っていた。その後ジャズ界で著名なナベサダが渡辺貞夫さんの事と知ったのは中学になってからなんだけど、あのドラマの好印象からナベサダ氏のLPを買ったものの生意気にも「ちょっと違うなぁ」って印象しかなかった。

「アレがほしいのに.............」。

っが、この高校生活の始まった頃になってナベサダ氏の「ソングブック」というLPが出た。なんとこれがアノ「待ってますワ」の挿入音楽集。

ひぇ〜〜〜〜〜っ、こんなのがLPになるなんて誰が期待します?。願いって叶うものなんですねぇ。正直驚きました。

そうなると益々ボサノヴァのフリークになってしまう。余談ですが後にジャズのハーモニーを勉強する時に買った「ジャズスタディー」という渡辺貞夫さんの著作に登場する譜例はアノ「待ってますワ」の挿入曲が大半を占めているのです。これは「待ってますワ」を見てた人で「ジャズスタディー」を買った人にしか分からない事なのですが、果たして何人いるのでしょうね。

[BossaNova......BossaNova.......BossaNova]

さて話は高校時代に戻ります。
音楽を勉強する為に音楽高校を選ぶ。冒頭に書いたような生活であるのは事実だが、肝心の目指す音楽が「ジャズ」だと、何かと弊害があるように思える。あくまでもクラシックを学ぶ場所なのですから。今でもその名残りがあるように音楽のジャンルに対する偏見は今よりも強かった。でも基礎的な事は同じだから生半可な事では挫けない。って書くと(ちょっと今日はこのフレーズが多い?)まるでクラシックの世界に殴り込みをかけているように取られるけど、実際は大幅に違う。

最初っからヴァイブをやりたくて入学したわけだからピアノ専攻は世を忍ぶ仮の姿。夏休み前に転科試験を申請する。曰く「ジャズを将来的にやりたいのです」。曰く「何をやるにしても基礎は同じですからヴァイブと同じ種類に属するマリンバを専攻したいのです」。曰く「これから卒業までのオーケストラや実技試験には支障を作りません」。さらに曰く「しいては御願いですから現在ある楽器では十分な練習が出来ませんのでちゃんとした楽器を購入していただきたい」。こんな事を音楽科長の前で述べた。

転科試験は簡単なスケールとアルペジオ程度だったので即認められたが「音楽科のピアノ専攻で男子が減るのは惜しいなぁ」とも言われた。でもどっちにしても晴れて専攻が変わった。でも楽器の事がある。これに対して「購入は検討するから貴方が何をやりたいのか次の実技試験で見せて下さい」との返事。ならば何かアピールする事やるしかないよね。

同級生がモーツァルトやバッハと格闘している時に、こっちは譜面の準備に追われた。高校の隣にある大学のパーカッションの部屋を借りヴァイブを占領しトラディショナルな曲でなるべくコードがジャズっぽいものを付けられる曲を探し、演奏しては譜面におこし、考えては演奏し譜面におこしを繰り返し、とにかく仕上げた譜面(勿論暗譜)を試験官に渡して試験を受けた(だって譜面に書いてる事以外やってはいけないんですから)。

なんせコードといってもC7だかCMaj7だか区別の付かない頃だけど、耳だけは小学校から鍛え上げてる(?)ので音符で書いちゃえば問題は無い。これがアレンジと呼べるなら最初にやったアレンジになるんだろうけど自覚は無い。ドキドキしながら結果を待つ。M原科長曰く「君のやりたい事は分かった。楽器も購入しよう。但し学業を疎かにしてはならない」。。。。。

その時は普段強面のM原科長が天使に見え、頭上5センチのところにエンジェルが見えた。やった、やった。これで晴れてヴァイビストの卵だ。万歳!!!!!!!。ってでも考えたら15才でもうこの世界にどっぷり二束の草鞋を預けてしまったという事など、ぜんぜん気付かずの状態だった。果たして良かったのか悪かったのか、これはこれからも一生付きまとう事だワね。

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こんな高校生は将来ジャズに流れるの図(作陽パーカッション・グループ)

[BossaNova.....BossaNova......BossaNova......BossaNova!!!!!]

さっきからサブ・タイトルにでてるボサノヴァ。その傾倒は高校時代も続く。
今もNフィルでファゴットを吹く同級のN森。音楽科に入って間も無い頃、寮の部屋でやたらギターを弾くN森がいた。日本でボサノヴァ系(と言っては失礼かもしれませんが)のヒット曲で当時誰でも知ってたアーチストに長谷川きよし氏がいる。

フォークソング・ブームの中で俄然楽曲の構成やコードの選択にセンスのある曲でギター一本に唄という、ボサノヴァのスタイルを守り抜くもので、随分コードのテンション用法を参考にさせてもらった(と言ってもN森がコピーして歌ってるものだから長谷川さんダイレクトではないのですが............)。

こういったギタ−一本に歌というのは本国のブラジリアンに限らず日本人でも周りにある鳴りもので自然に合いの手を入れたくなるものだ。

だから練習から帰ると夜な夜な誰とはなしにセッションが始まる。コーラの缶は砂を入れたらシェイカーに変わるわ、瓶に水を入れてホイッスルは作るわ、布団を叩けばタンバリンに変わるわ、もう音が出れば手当たり次第パーカッションに変身。階段の手すりは微妙に音程があるのでカウベルになり、床を踏めばスルドになる。水道管だって、洗面器だって何だって音の出るものはパーカッションに変身。まるで寮全体がバウンドするが如く大セッションとなってしまう。

たまらないのは隣に住む舎監。「いくら音楽科と言えども消灯時間後は静かにしなさい」って怒られる。が、翌日になればまた始まってしまう。勿論この騒動を快く思わない寮生だっているんだけど、その内にツラレテ一緒に騒ぎ出す。なんせパワーは全員ありあまっている。

っで舎監対策として消灯時間(午後11時)になるとピタッと納める技を覚える。これなら文句はあるまい。まぁ、この寮の話になると2〜3冊の本に出来るくらいの逸話や大騒ぎがあったんだけど、それはその内別項目でまとめるとして先に進もう。

寮生活というのもなかなかオツなもので、たまたま規則に縛られないこの寮のおかげで十分一人で思考する時間を得た。
そんな中で自然に囲まれる生活という今までの自分に無い環境に馴染んで見つけた事も多い。窓から遠くまで続く山の稜線を眺めたり、丘の上から夕陽の沈むのを時を忘れて見入ったり、同年輩の者であれこれ騒動を起こしたり考えたり、およそ今までの環境からは掛け離れた時間の中で過ごす事になった。

オレ、こんな所で生まれたらきっとジャズなんかに出会わなかったかもしれないなぁとも思った。

でも、もう出会ってしまってるんだから仕方が無い。仕方ないけど、そんな中にいるとボサノヴァが妙に心に響く。

N森も若干ジャズのLPを持ってて僕が「ゲッツ〜ジルベルト」を聞いてると「それいいねぇ。こんなんもあるよ」と彼が出してきたのがソニア・ローザ。

曰く「ギタ−持ってこんなおね〜ちゃんが歌ってるっていいんよねぇ」「昔テレビで見てすぐ買ったんだワ」。そう言えば僕も60年代の終わり頃テレビで見たような気がする。白い帽子に白いギターを弾きながら歌うソニア・ローザ。いいねぇ。って書くとソニア・ローザが良いのかボサノヴァが良いのかはっきりしないが、そんな事はどうでもいい。いいんですよ。

ちなみにソニア・ローザのアルバムの最後にドコスカ・ドコスカって感じのサンバ・リズムセクションが入っててクレジットを見たら「渡辺貞夫グループ」とあった。やっぱりこの人はボサノヴァの人だ。さらにN森が東京に進出してライブハウスを見てたらソニア・ローザが出演していたので見たらしい。でもあのジャケットの白い帽子の女の子では無かった(当たり前だ!!何年時間が過ぎていると思ってるんだろう??)。ショックだったそうな。

[BossaNova........BossaNova..........BossaNova..........BossaNova!!!!!!]

N森も言ってたんだけどボサノヴァは朝靄("あさもや"です。埼玉県の"あさか"市ではありません。近所なもので........誤解なきように)が似合う。

今でもたまに陽の昇る真際にジョアン・ジルベルトを聴く事がある。「ゲッツ〜ジルベルト」を聴く事がある。あの時間の空の色や空気、緑の色ってボサノヴァに最もフィットしていると思う。勿論これは個人的な見解で、そうでなければならないわけではないが、灼熱の太陽の下で聴くほどボサノヴァにパワーや健全さはない。それはサンバだろう。ってテレビなんかで夏といえばボサノヴァの季節なんてやってるセンスのない選曲にツッコミを入れたくなる(余計なお世話だってば?)。

訳詞をみればボサノヴァが優しく切ない音楽である事が分かるだろうに....。このあたりの人達最近センスないっス。元気一杯のボサノヴァなんて聞きたいですか?

海岸も良いが出来るなら山や河のある所が相応しい。海岸なら夏よりも秋のほうがよく似合う。ポルトガル語は理解できないけど優れた音楽には言葉以上のメッセージがある。それは聴けば分かる。歌詞を聴いて感動するという感性があまり無い僕らにとってボサノヴァは最もそれがストレートに響く音楽である事は確かなよう。

まぁ、どうだって良い事なんだけど、曖昧な歌詞や意味不明の歌詞なら無い方が良い場合ってありませんか?ニュース番組のテーマに歌詞があるなんて言葉に言葉が重なってうるさいんだけどねぇ。内容に合わない場合も多いし。ニュアンスを大切に単純に音を楽しむって大切だと思うのですが....................。

それはさておき、旅に出る時も頭の中ではそんなボサノヴァの似合う場所を見つけたり、そんなシーンに遭遇したりで結構楽しんでた時期でもあります。後に知ったボサノヴァに対するジョアン・ジルベルトの言葉を書きます。

静けさを傷つけてはいけない..........静けさは神聖なものだ




◇ところで第4次接近遭遇ですが......

この頃になるとそろそろ色んなものを目撃する環境になってきました。
その前に本格的にヴァイブを始めるにあたって自分のやりたい奏法について考えてみる必要がありました。今までは音だけで判断していたのですが、実際にマリンバの基礎的な部分を学ぶにつれ、4本のマレットを持つという事についてもう一度グリップについて考える必要が出てきたのです。

学校で尋ねると、どうやら僕が中学以来持ってる持ち方はスタンダードなグリップと比べると重ね方が逆のようなのです。でもスタンダード・グリップには何となく抵抗があったので「何か参考になるものはないんかい」と考えてる内に「そうだLPのジャケットにヒントがあるじゃないか!!!」って閃き!!!!。

早速今までに買ったゲイリー・バートンのアルバムを引っ掻き回すと、あった、あった。ありました。ムフフフフ。「ザ・タイムマシン」というアルバムのジャケットがストロボ撮影で色んな角度からグリップの状態が見てとれる。やっぱ逆なんですね。この時は理由は分からないが何かヒントを掴んだ気になった。

その頃に購入していたゲイリー・バートンのアルバムは、「ザ・タイムマシーン」「サムシング・カミング」「ラリー・バンカー・アット・シェリーズ・マン・ホール」「テネシー・ファイアー・バード」「ダスター」「サイケデリック・ワールド(邦題)」「イン・コンサート」「葬送」「カントリー・ロード」「鼓動」「グッドヴァイブス」「ゲイリー・バートン&キース・ジヤレット」「パリの巡り逢い(邦題)」「アローン・アット・ラスト」「イン・トーキョー」「クリスタル・サイレンス」「ニュー・クァルテット」といった具合でビクターからアトランティックを経てECM盤が出始めた頃です。

そうこうする内に、願ってもないゲイリー・バートンの来日公演を見る事に。場所は大阪のサンケイ・ホール。平日だったけど、ちょうどレッスンの無い日で、午後から出かけて翌朝の授業開始までに戻れば問題は無い(あるってば!!!高校生だろ!)。

学校のある岡山の山の中から大阪は遠いなぁ。でも行くもんね。ドン行に揺られ1時間半、新幹線で1時間。少し時間があったので大阪をブラブラ。うつぼ公園という所に入った記憶がある。開場時間になってワクワクしながらサンケイホールに入る。ミック・グッドリック/g、ステイーヴ・スワロー/b、テッド・サイブス/dsにラルフ・タウナー/gがゲストというもの。
息をするゲイリ−氏との正しく第一次接近遭遇である(生きてるんだから当たり前だけど)。ステージの後半でラルフ・タウナーとのデュオがあり、天国にいる気分。いゃぁ〜感激。感激。この人やっぱりタダモノではなかった。今夜の事はしっかり目撃しておこう。

っでもって公演が終わり、至高の時の余韻に酔いしれるものの、ここからが大変。明日の授業に間に合うように帰らねばならない。地方って自然がいっぱいあってとても好きなんだけど、こうなると如何なる手段を嵩じても戻らなければならない悲しさがある。だってもしも授業に遅れようものなら今後学割の発行に差し支えるとなるとキビシイのだ。大阪に泊まって一番の新幹線も考えたんだけどローカル線に良い時間のものが無い。っでもって考えたコースがこれ。

大阪から夜行で福知山線を経由して福知山へ向う。福知山で山陰線の夜行に乗り換えて鳥取に向う。鳥取で始発のローカル線に乗り換えると授業開始時刻に間に合う。もちろん一旦寮に戻って着替える事もできる。完璧。

っで、大阪でしばらく時間をつぶして夜行に乗ったんだけど、前に座ったオッチャンが「ホラ、これ旨いデェ。ニ〜チャン飲まなあかんわ。夜行っちゅうもんは飲んで寝ればええねん。退屈やろ、ほらこれやるさかいに飲み」ってオイオイこっちは高校生ヤ、オッサン。オレは夜行でも外を見るのが好きやっちゅうねん。列車に乗ってるだけでも退屈せェへんっちゅうねん。え〜加減にせ〜よ。ホンマ。えっ、まだ勧めるんかいな。ほな飲むさかいちょっと、ほら、静かにせんと周りに迷惑が..........

ほら、おっさん。あっ窓からゴミすてたらアカンっちゅうねん。あ〜あ寝てもうた。どないせイっちゅうねん。どないせイっちゅう..........どない.........どな..................................................................。ふくちやま?????。

福知山???............福知山っちゅうたら乗り換えなあかんやん。うわ〜足がもつれよる。ひゃ〜。

っといった具合で至高の余韻はおろか、車内放送の余韻も定かではなく、寸での所で乗り換えて寒風吹き荒む鳥取の駅で震えながらロ−カル線を待つ始末。終点の下車駅が近付くにつれ通学の人息れでムシかえる車内でやや二日酔い気味で寝不足の高校生は何としてもダッシュで寮に舞い戻り「ニンニク」をかじりながら証拠隠滅を計りつつある自分を連想していた。

これに懲りて強行軍は取り止め.....................なんて事になるわけもなく、この頃にはスタン・ゲッツ・クァルテットを岡山でN森の父親の運転する車で往復、キース・ジャレット・クァルテットを週末の松山に帰って往復、さらに再びの夜行作戦で何十年振りかで来日のマイルス・デイビスを広島の郵便貯金ホールに追い、あまりに刺激的だったので翌日の大阪公演も追う(これも夜行/確か急行「高千穂」とかいった列車に乗った記憶あり)というエスカレート振り。

しかも大阪からの戻りは前回と同じで、これまた前に座ったオッサンとオネーチャンから酒を勧められる。大阪発の夜行列車はよっぽど酒飲みが多いのだろう。

この頃から時刻表を調べては列車に乗り、車中で再び時刻表をめくりながら気の向いたところへ行く一人旅も始めた。まっ本論とは関係ないけど、そんなゲ−ム的な旅行にチャレンジし始めたのは、学割の魅力と冒険心と、音楽に因果関係が無い事もないのである。

そんなこんなで過ごす高校生活ではあるが、山の中の暮らしとはいえ世の情報源として大きなものが2つばかりあった。ひとつはラジオである。元々中学時代は深夜放送なんて聴いて糸居五郎氏の番組に投稿するくらいだからお手のものなんだけど、寮にはテレビは無いし、レコード屋だって町に知れた数しかない場所の事。しかも練習時間は平均一日あたり4〜5時間のメニュー。だから世の中で何が流行って何に注目が集まってるなんてまったく知らない。でもラジオは何処でも聴ける。

っで聴ける時間って割と少ないんだけど夕方のNHK-FMでやってた「午後の.........」って時々ジャズがかかってたので授業が終わって寮で着替えて練習に出るまでの間に聴いたり、同じNHK-FMで毎週曜日は忘れたが夜やってた「ジャズ・フラッシュ」、週末にやってた「渡辺貞夫マイ・ディア・ライフ」、夜な夜な色んな音楽が聴ける「ジェット・ストリーム」ってとこ。でもこれらは情報に飢える高校寮生にとっては貴重な蛋白源であった。「ジェット・ストリーム」なんて懐かしく思う人多いんじゃないかなぁ。飢えてた証拠に休みで実家に戻るとこれらの番組はおろかテレビばっかでラジオはろくに聴かなかったもんなぁ。遊びに出かけるばっかで、まぁ、周りの環境によって常に何かに飢えていたのでしょう(っん?)。

もうひとつの情報源は、その町に一軒だけあったジャズ喫茶。「邪美館(じゃびかん)」といって僕が高校のあるその町に住むようになってからできたらしい。
毎日練習に明け暮れるものの週末は遊ぶか休むとしていたので(よく高校で1日練習をサボると取り戻すのに3日かかるなんて言われてたけど)、寮の同級生と丘から降りて(凄い表現だけど事実なんだこれが!!)町を探索する事が多かった。

同級でホルン専攻のH上は無類のコ−ヒ−好きで、コイツの週末は町のコ−ヒ−屋巡りだった。どこからどう見てもニキビ面の高校生のくせにレーバンのサングラスにスーツを着てコ−ヒ−屋を巡る。周りの人は高校生と完全に気付くも本人だけはすっかりナリきってる。いるよねこういう奴。「コーヒーはこの香りが命」とか何とか言って煙草を吸ってりゃ香りなんか飛んでしまうと思うのだが、N森曰く「たまにヤツの言う事も当たる時がある」。そこでH上が「新しい店の情報を入手したので行こう」と言う。

天気のいい日曜日にニキビ面のレーバン男とじゃ冴えないんだけど、まっいいっか!。っで町に唯一あるアーケード街を抜けて横道に入る。先週の日曜に屋上でバカ騒ぎをしたニチイを通り過ぎ四つ角に差しかかる。ニキビ面のレーバン男が「ありゃ〜........閉まっと〜な〜(岡山弁は語尾を伸ばす言葉が多い。これは閉まってるの意)」「これじゃから日曜日はおえりゃ〜せんわ〜(これも岡山弁。ダメの意)」。

N森の言った「当たる時もある」という言葉を思い出しながら腹も減ったから角の更科に入ろうとすると、どうもこの男諦めが悪い。「一応行ってみんしゃい(みよう)」と喫茶店に向う。何を思ったか「定休日」の札が掛かる喫茶店のドアをガンガン叩く。呆れて見ていると「誰もおりゃあせんわ〜(いないの意)」。当たり前だボケ!っと思いつつ看板に「Jazz&Coffee」とあるのを発見。

N森の言った「当たる時もある」を今度はさっきと違う意味でこのニキビ面レーバン男にむけた。

早速翌日の練習を午後8時半で切り上げ、この「Jazz&Coffee」へ向う。勿論ニキビ面レーバン男はいない。奴は今頃ホルン協奏曲と格闘中だ。Fの音が上がりきらず何度もそのフレーズばっかくり返してやがる。

しめしめっ、と言うのも練習室が隣接してるので音がしないと「どけ〜行くんなら(何処か行くの?の意)」とレーバン男がくっついてくる可能性があるんだが、今は実技試験前でそれどころでは無いらしい。丘から降り河っ縁の道を行き橋を渡りアーケードを抜けてその店のドアを開けるには20分かかった。逆算すれば門限の20分前に出ればよろし。

最初に訪れる店は何もかもが新鮮だ。そんなに広くない空間に白い壁と木製のテーブルとカウンター。奥にJBLのスピーカーがある。自宅のある松山にはなぜかジャズ喫茶が多く当時12〜3軒あっていくつかの店に行った事はあるが(その内の一軒が我が家のテナントであってそれでこのジャズ人生が始まったわけ)みんな薄暗い。

でもこの店は新しい事もあってか店内が明るい。ふ〜ん。明るいジャズ喫茶かぁ。カウンターに座ってコーヒーを注文する。

カウンターの中にいるヒョロっとしたチリヂリ長髪の男が"そっ"と会釈をしてコーヒーを入れる。どうやらこの男がマスターらしい。

ジャズ喫茶の例に漏れず「大きな声での会話は御遠慮願います」というカードが各所に。

マスターらしい男が"そっ"とコーヒーを差出す。

"そっ"と灰皿も差し出す。

さらに"そっ"と「邪美館」と店の名前の入ったマッチも差し出す。

とにかくこの人、全て"そっ"とするのである。

しばらくして午後9時を回るとマスターが"そっ"とステレオのヴォリュームを下げる。

おかしな店だ。普通ジャズ喫茶ならグワングワンの大ヴォリュームでレコードをかけてるものなんだが.........。

午後9時40分を過ぎたのでレシートを持ってカウンターを後にする。カウンターの中のマスターが平行移動よろしく"そっ"とレジに移動する。

「120円也」のコ−ヒ−代を150円で支払うと"そっ"と30円のおつりを差し出す。どうやらこの店の基本動作は"そっ"とらしい。
ならばこちらも"そっ"とレジを後にし、"そっ"とドアを開け、"そっ"と店を後にする。出際にマスターが"そっ"と小さな声で「ありがとうございました〜」。

寮に近付くと午後10時はとっくに過ぎてるのに恒例の如く1階から・・・ジャカスカ・ジャカスカ・ズドドン・ズドドン。シャバデュビ・シャバデュビ・・・・の大合唱に加え2階からは「ひゃ〜、やめてくりぃ〜」というニキビ面レ−バン男H上の絶叫が(この頃2階ではH上を中心とした行事が盛んに行われていたらしい)丘の上にコダマしてる(やはりこのあたりの事は何れ別項目の抱腹絶倒話にまとめよう)。おまけにトランペットでターリラリラリラってスケール吹いてる奴がいる。やっぱりこの寮は変だ。が、暮らしやすいから少々の騒動は諦めよう。第一この寮にはあまり先輩とか後輩とかいった区別がない。気楽でいいとこだ。

翌日も同じ時間に練習を切り上げ「邪美館」に向う。勿論"そっ"とドアを開け、"そっ"とカウンターに座ったのは言うまでもない。また翌日も、あくる日も...............

っと「邪美館」詣でがすっかりライフワークになった。そのうちレシートに「リクエストがあればお書き下さい」とあるのを発見。
そこで先日FMで聴いた「ハービー・ハンコックのI have A Dream」と書いて出した。もちろん"そっ"と。

するとマスターはしばらく困った顔をした後、こっちを見て首を左右に振る。もちろん"そっ"と。こちらも"そっ"とうなづき、これはこれで終わり。"そっ"とコ−ヒ−代を支払い、"そっ"とおつりを渡され、"そっ"店を出る。

また別の日に「チャーリー・パーカーのラバー・マンでダイアル盤」とリクエストを書くと困った顔をして首を左右に振る。じゃあ最近ラジオで流れてる「ドナルド・バードのフライト・タイム」。また首を左右に振る。「チック・コリアならなんでもいい」。また首を左右に振る。「ウェザーリポートならなんでも..............」また首が左右に動く。じゃあ「キース・ジャレットのケルン・コンサート」あっ、初めて首が縦に動いた。.............................
なんて具合でリクエストする内の5枚に1枚程度しか首が縦に動かない。でも、その間にマスターの選曲でかけるソニー・ロリンズやケニー・ドリュー、といった自分では買わなかったいろいろなジャズを知る事が出来た。

後日マスターと話すようになってからこのあたりの事を尋ねたら、ただ単にレコードが無かっただけだって。

常連という響きは何か一種のシンボルのように感じる事もある。高校生であれ常連には違いない。何回も通うと誰でも常連になるのだが、常連同志であるからと言って仲が良いわけではない。まして「大きな声での会話は御遠慮下さい」という空間である。

ある頃になって「邪美館」のカウンターにいつもいる人に気付く。同じような時間に来て同じような時間に帰るひと。名前も知らない。ただ僕よりは年輩。その人もリクエストしていて「クリフォード・ブラウン」がヒイキと見た。なぜか僕が「マイルス・デイビス」をリクエストすると次に「クリフォード・ブラウン」がかかる。「ビル・エヴァンス」をリクエストすると次は「ケニー・ドリュー」がかかる。

まるで水と油である。世の中いろいろ、好みもいろいろ。でもそれが面白くてまるでチェスのように「手の内」を探り合いリクエストに集中する。ムムム、御主やるな。って相手が思ってたかどうかは分からないけど、これでいろんなミュージシャンを知る事ができた。何年かしてその人が来なくなってからはちょっと寂しい気がしたけど、あの、次にリクエストするのは何かを考えてる時間って楽しかった。

92年にギターのM下君とデュオツアーで十数年振りかに「邪美館」を訪れた時、マスターにこの事を尋ねたら「さぁ、その人の事は覚えてないなぁ」「でもyouが(マスターの口癖)リクエストする曲って、ことごとくウチに無いものばっかでね、いつも次何言ってくるかビビってたんよ」。

僕の「邪美館」詣でにつられてN森やH上も頻繁に顔を出すようになったのは言うまでもない。そして、皆一様に"そっ"とドアを開け、"そっ"とコーヒーを飲み、"そっ"とリクエストし、"そっ"とお金を払って、"そっ"と店を後にする流儀に従った。S陽高校音楽科男子寮御用達のお店であった。我々にとって「邪美館」は高校や寮という小さなコミュニティーから社会との小さな接点でもあった。

その内、寮で門限は原則化され遅れる場合は舎監に電話すれば良いといった画期的な寮の法案(もっとも言い出しっぺはN森、僕、H上である)が可決制定されるや、「邪美館」の閉店時間まで粘る事になるのだが、たかだかコーヒーの1杯や2杯で粘る高校生にはマスターもさぞ苦労した事だろうなぁ。みなさん、岡山の山の中にある津山に行ったら是非「邪美館」に行って下さい。ニチイの近くです。ただしあくまでも"そっ"とする基本動作を忘れずに。優しいマスターのセンスが溢れる店です。

地方に住むといろんな事が体験できて楽しい。不便さは何れ楽しさに変わる。音楽においても情報が少ないという事は一見不便だが、自分で考える事を教えてくれた。
今でもN森やH上に逢うと一様に言う。「あの頃はとにかく愉快で痛快な毎日だったなぁ」。僕もそう思う。若かったからかも知れないが疑問や喚問は瞬く間にクリアーになった。十分な情報など無かったのにね。あんな寮生活ならあってもいい。

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学生時代毎週土曜日に出演していたテレビ岡山の生放送からのスナップ。
音大に通いながら週末に仕事をする学生はジャズに流れるの図。
下山さん、O村さん、Y田君元気? 岡山地方の方で御覧になってた方いらっしゃいますか?

さてさて、そろそろ大学に入りアマ、プロレベルで仕事やライブも始めた。なかなか話が進まないけど面白い話は一杯あるし、で、ゲイリ−氏との接近遭遇もまだまだ続くのでありました。以下次回。                     

1998年8月9日記


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音楽体験記-3
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ジャズとの出会い、ゲイリー・バ−トン氏との出会い、ヴァイブとの出会い

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Photo[松山のジャズミュージシャンとのセッション
左から伊賀上ひろし(p)氏、僕、渡辺綱幸(b)氏、堤宏史(ds)氏]


日本の大学ってホント、ヒマなんですよねぇ(ホントはヒマじゃないんですけど)。これボストンのBerklee college of Musicに行ってから身に染みて感じました。ホント、アメリカの大学は高校や専門学校のように忙しい。比べて日本の大学は時間が有り余ってます。だから自分で勝手にやる事を決めてコツコツ無駄も含めてやるのには向いているかもしれませんね。偉大なる勘違いは時に役立つ事もあります。でも刺激が少ないのが難点ですねぇ。特に地方の学校程その難点が増えちゃうんですよ。刺激の数は人口集積度に比例する。もっとも大自然からの刺激は確実に地方に優るものはないのですが.....。っんで、その山の中の音大のお話から.......。
おっとその前に大切な人達との出会いを忘れちゃいけない。高校卒業の春休み(何か変だけど大学までの間の休みの事です。高校生改めって時期ですね)に初めてプロのヴァイブ奏者に会った。



□■□■□■□[ジャズ業界との出会い]■□■□■□■

ちょうど実家のある松山に帰省中、父親がNHKとかで共演した事のあるドラムの人を紹介してくれた。この日の事は今でもよく覚えてる。近所の繁華街のとある喫茶店(確かポエムロビーという名前だった)で待ち合わせ、そこに登場したのが堤宏史さん。「いゃ〜。そう、ジャズをねぇ、ほぅ、高校から、ウンウン、じゃあこうしましょうか。今夜カクカクシカジカで演奏してるから、一度遊びにいらっしゃい。ソシタラ、そこで紹介するって事で..........」終始ニコやかに語る。短く刈り上げた頭とサングラス、額の汗を拭う首に巻いた手拭い。しゃべり出すまでは恐〜い関係の人とも見えて"高校生改め"はかなり緊張してたのだが、まぁ、今までに出会った事のないタイプの人と会う時って皆そんなもんでしょ。

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[18才の時に初めて出会ったプロドラマー堤宏史さん
松山ジャズ界の重鎮。ちょっと恐い風だけどとても優しい]

★おはようございますの意
夕方、何となく落ち着かない「高校生改め」は教えられた場所へと市電に10分程ゆられ、教えられた入り口よりソコに侵入し、教えられた階段を上がって教えられたドアをノックする..........

っと、その前にドアの横に貼られた紙に注目。「元気にあいさつは"おはようございます"」。???。

今は夕方、かれこれ7時になろうとする頃。「高校生改め」はしばし考えてしまう。「こんばんわ」か「おはようございます」か。う〜ん。っと、ドア横で思案に暮れる高校生改めの横をスーっと一人の男がすり抜けノックも無しにドアを開き「おっはようござーいまっす」と入る。「おはようっす」「おはっおはっ」「う」「でした」・・・・。かなり省略形やなぜか完了形も聞こえるが「おはようございます」に反応している。

ウワァ〜っ、こりゃ別世界だわ。う〜ん。困ったものだ。


★ギョーカイ言葉洗礼の意

でも約束の時間はきてるし思案してる場合じゃないから・・・勇気を出してコンコン・・・

「はぁ〜い」

「あのぅ、堤さんに会いに来たんですがぁ〜」

「あっツーさん?ツーさんはまだやねぇ」
「..っそっ...そうですかぁ」
「もうすぐ来るおもうから待っとれば」
「あっハイ」
「そこに座っとればええよ」
「っあっ、 はい」................。

応対してくれた人はひたすらベースの弓に松ヤニを塗る。キコキコ..........。
っか、っ会話途切れる.........。キコキコ..

「ところで●●チャン、昨日どないしたん?」
「あっ、アレな、あかんかった」。
キコキコ「なんデ?結構良かったんちゃうん?」
「いやイータカでね。よう見たらモノもドイヒなんよ」
「ツェージュウやったかなぁ」
「いやそれがツェーゲーなんよ」
「ツェーゲー?そらイータカやわ」
「そやろイータカなんよ」
「買わんな」
「買わんやろ」キコキコ。

なんか"高校生改め"にはさっぱり分からぬ会話が続く。

キコキコ。
「ところでツーさん遅いねぇ」

(アッ、こっちに話しが来る。ドーしよう。取りあえず)「そうですねぇ」。
キコキコ。
「おはよう」
「おはよ」
「う」
「でした」...。

どんどん入ってくる。どうやらこのベースの人がさっきから完了形を使っていることは分った。

キコキコ。

その内高校生改めには分からない会話が渦巻く。
「ドイヒ」「ズイマ」「クーキャ」「ヒーコ」「ヤノピ」「パツラ」..........................。

キコキコ。

「おはよう!!」「おはようございます」「おは」「う」「でした」。

やっと堤さんの登場。ホっとする。
「ツーさんお客さん」
「おぅ、来たね」
「ハイ」
「あっこっちがさっき話してた高校生の赤松君。こっちがヴァイブの藤井寛さん」
「はじめまして」
「初めまして」

「あ、僕ナベです」
「あっ初めまして、いや、さっきからお邪魔してます」。
ベースの渡辺綱幸氏。つまり完了形の人。当然「でした」。

後でわかった業界用語/ドイヒ=ひどい ズイマ=まずい ク−キャ=客 ヒ−コ=コ−ヒ− ヤノピ=ピアノ パツラ=ラッパ(主にホーンセクションを示す) 他にも沢山ありますが今は恥ずかしくてこんな言葉も使わなくなりましたね。入門当時はこんな事でも随分専門的に感じたものでした。粋がってたのでしょう。


★遊びにいらっしゃいの意

「早速だけど、じゃあコレ着て」と堤さん。

「えっ?」て思う間もなくジャケットを渡され袖を通すないなや
「じゃあ僕が2曲やるから2曲くらい遊んでって」と藤井さん。
「何か知ってる曲、メモリーある?」
「いや、そのう、ステラ・バイ・スターライトなら」
「じゃあステラとブルースがいいね」って藤井さん。
成りゆきに思わず「ハイ」と答える"高校生改め"。
「じゃあ行こう。皆、高校生でジャズやってる赤松君です。今日は遊びにきました。」

「宜しくお願いします」

「よろしく」「う」「よ〜し」「でした」。

「ピアノに座って適当に弾くふりしてて。もし知ってたら弾いてもいいよ」って藤井さん。
「ハイ」。
ステージまでの階段を降り、とにかくピアノに座る。

1曲めはバンドのテーマらしい。分からずピアノを弾くフリをする。

2曲め。何か小声で「サンマルゴ」「さんまるご」って聞こえる。
横に居たベースの渡辺氏がしきりにピアノの上にある本を目で合図する。

あっこの本にあるんだ!!。うわぁっ、どれだ?「サン マルゴ」。「SunだからS.S.S.S.っと」「えっ違う」ありゃりゃ、藤井さんのソロが始まってる。カッコいいなぁ。

渡辺氏が小声で「さんびゃくご」。
うひぁ〜っサン マルゴって曲の番号だったのかぁ。305.305っと、あったぁ〜。ジャン。終わっちゃったよ。トホホ。

「よるせん」「ヨルセン」今度は小声で「ヨルセン」って聞こえる。なんだぁ?one,two,one-two-three-four、ジャーン。あっこれ聞いたことある曲だ。「夜は千の眼を持つ/The night has a thousand eyes」。そうか略して「ヨルセン」かぁ。感心してる間も無く、やがて藤井さんのソロになり、ボビー・ハッチャーソン顔負けの演奏に聞き惚れる。そうこうする内に藤井さんが振り向き「交代だよ」。ってドーしよう。


★緊張するの意

でもこうなったらドーにでもナれって開き直るが残念ながらプレッシャーは消えない。しかも今ではヴァイブの特権と思う客席に向って演奏法をアピールするそのスタンスが超プレッシャー。アカラサマ状態。

ステラ・バイ・スターライトが始まり、後は何をやったか覚えていない。ブルースが終わってヘロヘロになってステージから上がると「でしたぁ」って完了形の渡辺氏。
藤井さんや堤さんに「もう、超緊張しましたよ」って言うのがやっと。

その後2setほどピアノに座って弾くフリをしながら藤井さんの演奏をじっくり聞いた。やっぱプロは違うなぁ。"高校生改め"は自分の腑甲斐無さに気付くとともに大いにやる気を奮い立たせた18才の春。

それ以来、大学の夏休み、冬休み、春休みとなれば、松山の実家に帰る毎にドラムの堤宏史さん、ベースのナベさんこと渡辺綱幸氏、ピアノの伊賀上ひろしさん、ドラムの高橋修さん、そしてヴァイブの藤井寛さんの居る「パレス」やライブハウスの「SUS4」に出没しては御迷惑をかけた。僕にとっては初めて接したプロ・ミュージシャンで見るもの聞くもの全て新鮮だった。


★この頃知っていた音楽知識(学校で習わなかったモノ)

1)コードネームの初歩***コードとコードネームに関する知識は貧困。maj7と7、m7の区別がやっと。でも書き方っていっぱいあってMaj7だけでもM7、△7。m7だって-7とかmin7なんて混在。いわゆるド・ミ・ソは完璧でもその上の7thがmaj7なのかb7なのかを正確に把握していたかは怪しい。和音で書いたり7thは省略したりで高校生はかなり誤魔化した部分もある。

2)コードスケールの初歩***インプロ(即興演奏またはアドリブ)が譜面に書いてない事は知っていたが、まさかあんなに簡潔なメロディーとコードネームだけで演奏するとは高校生にはショック。
この頃、そんな譜面を見てまずkey(調号)に注目。とにかくそのkeyの中で何かが行われているわけだから(シャープが何個とかフラットが何個とかね)、ひたすら曲の調性とそこにあるコードトーンの照合(まるで筆跡鑑定のように感じてた)が唯一のガイド。だから本当コードスケールなんて言葉知らず。「このDmaj7はイ長調の中にあるからシャープは3つで....えーっと、アレレ?なんで第4音がシャープになるんだ???。でもなんか気持ち良い響きだからコレは頂き!!。やったね。すると使える音はDとF#とAとC#にG#。う〜ん。Eはどうやろ。アッ、使えそう。っんじゃぁBはどうかな???。うぉ〜っ。なんとか使えそう。じゃあココはD.E.F#.G#.A.B.C#.Dと。ふむふむ」まるでパソコンの新しいマニュアル解析の如く。


★松山のミュージシャンその後の意

その「パレス」も「SUS4」も今は無いが、現在も堤さんは勿論ドラムとこれもプロ級のマジックのパフォーマンスを見せるマジックハウスを経営、「でした」のナベさんは松山を中心に演奏活動を続け、ピアノの伊賀上さんは演奏活動とライブハウス「ムーングロウ(当サイトからリンク)」を経営、ドラムの高橋さんもライブハウス「グレッヂ」を経営、四国松山のジャズシーンを支えつつ(時々趣味に暴走しつつ)元気に活躍中。松山に行けば必ず彼等に会う事が出来る(もちろんムーングロウ・サイトに行けばいつでも会えます)。またヴァイブの藤井さんは東京に戻り演奏活動で多忙の日々を送られている。他にも松山のミュージシャンとの出会いがあるのでそれはこの後の本文で紹介するとして、取り合えず高校生改めの改め後に話しは進みます。

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[松山のジャズミュージシャン/左から吉岡英雄さん(b)、ゲストChika(vo)、私、
この日は地元のピアニスト栗田敬子さんのリーダー・コンサートで
ドラムは桜井康夫さん(ライブハウス「キーストン」オーナー)でした。於、松山アオノホール]


□■□■□■□[再び山の中に戻り]□■□■□■□

再び岡山県は山の中にある津山市。その街に唯一あるジャズ喫茶に通ってウン年。あの盛り上がりまくりの高校音楽科の寮も卒業とともに出なきゃならん。ファゴットのN森は一足先に東京のK音大、トランペット兼ヴォーカルのT橋も(現D徳寺)同じくM音大に行く等、そのまま上に上がったのは僕や例のニキビ面レ−バン男のH上とまぁ約半数。

さてどうするか?

そう、まず住む所の確保。同じ敷地内に高校、大学、そして例の高校音楽科寮があって、さすがにもうこのエリアは住み飽きた。「そうだそうだ」。

っん? 

ならばチト離れた場所で気分を変えて住むのも悪くない。「そうだそうだ」。

っん? 

遠くてもチャリで通えば良い。「そうだそうだ」。

っん? 

そこで学校とは正反対の位置にある物件を見に行く。近くに一応この辺りでは知られる観光地があり、チャリで通うと約20分。途中に河あり(都合良く)ジャズ喫茶あり、近辺に公園ありで、これは良い。

「そうだそうだ」

っん? さっきからそうだそうだって誰だ。人の後ろから着いて来るのは。
ま、まさかお前...........。何の因果か知らないが、トホホ、ニキビ面レーバン男。
この男と住む事になってしまった。まぁ寮時代からのつき合いだから気兼ねしなくて済むのは良いとしても.......ねぇ。


★ジャズを音大で志す事の難しさ

音大の中でジャズをやるのは困難なものがあります。まず、共演できる相手がなかなか見つからない事。ダンパ(随分懐かしい響きだけど今もあるらしい)や大学祭の時に普段の専攻楽器をポイと投げ捨てガンガンRockやJazzするオニーチャン達は高校時代から見るには見るが、まぁあくまでも仮の姿。唯一「ジャズ研」というのもあるが事実上高校音楽科生の方が一枚上手(失礼)。

第一リズムセクションが揃わない。ホント人材不足って、それなら音大行っても意味は無いじゃないかって?でも楽器に関する事では優るものは無し。難しい選択。困難なその2はそれを演る場所が少ないって事。やっぱり人前でやんなきゃ意味が無いもんね。特にJazzなんて。う〜ん。困ったものだ。山の中の学校は。そんな中、しばらくすると教授陣の中にもポピュラー関係の仕事をやった人が何人かいる事が分った。そしてこの山の中にもかかわらず、街で演奏してるそうだ。これは会いに行くしかあるまい。




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★街のミュージシャンとの出会い
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とある日曜日の夜、普段は普通の喫茶店なのだが月の内2〜3回は地元のミュージシャンがライブをやっている。コーヒー屋で確か「ゆくみ」と言った。実家の松山で既にプロとして演奏する人達との出会いは済ませていたので良い意味で緊張は無い。サックスに三戸さん、ギターに石井さん、ピアノに松永さん、ベースに小坂さん、そしてドラムに大学講師の下山さん。スタンダードと割とフュージョンっぽい曲が半々。特に下山さんのドラムが印象的。

それもそのはずこの人東京キューバン・ボーイズというラテン系バンド老舗出身。大学で会うといつもニコニコしているんだけどドラムに座るとキュっと目が鋭くなる。

「あのぅ、大学でいつも御会いしますね」
「アッそうネ!。マリンバ専攻してるでしょ」
「覚えて頂けて光栄です。実はジャズやりたくてウズウズしてるんですけど、学校じゃなかなか難しくって」
「そうねぇ、あそこはクラシックの学校だからねぇ」
「何処か出来る場所は無いでしょうか」........。

随分初対面で図々しいとは思ったんだけど、やっぱりやらないと分からないからねぇ。こっちも必死。「じゃあ今度一度遊びにおいでよ。ここで」。ほらね。遊びにおいでって事、つまり演奏においでって事だ。これチャンスっす。「是非!!!!!」って目はハ−トマークに。いついつに●●教室に来ればレパートリーの譜面をコピーしてくれるそうな。それで早速いついつに下山さんを●●教室に訪ねた。




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★将来への修業
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「将来はどうするの?」。

訪れた僕に譜面のコピーを渡しながら下山さんは言う。

「トーキョに出てジャズやります」。
「そう、でも厳しいよ」
「分ってます」。
「特にヴァイブは需要が少ないしクラリネットとかと同様に厳しいと思うよ」
「ハイ、でもやってみます」。

これが下山さんとの最初のやり取りだったと思う。例の"U"セッションに呼んでくれて、演奏の後に「あそこの演奏はもっとこんな風にやると良くなる」「リズムがもっとしっかり出た方がよい」「ブルーノートの使い方を工夫すると良いかもね」................。

僕にとっては初めて違う楽器の人から受けるアドヴァイス。
地元のミュージシャンも常にいろいろな手ほどきをこの初心者に与えてくれる。コレハ学校よりも100倍役に立つ。いつも誘ってくれるお返しに大学祭に呼んで演奏してもらったりする内「ちょっと用事があるから」って下山さんの部屋に呼ばれる。普段学校で講師や教授の部屋に呼ばれる時ってろくな事がないんだけど、たまたま僕は下山さんの授業は取ってなかったのでその意味では安心?(ほんと授業は代返が多かったなぁ)。

「毎週土曜日はバイトかなんかある?」
「いいえ、特に無いですが」
「じゃあね、これから毎週岡山に行こう」
「えッ。岡山ですか?(岡山までは60km程ある)」。
「うん。毎週午前11時に迎えに行くから楽器をバラして準備しておいて」
「はい」。

なんだろうって思いながら校内を歩いていると京都出身の数少ないジャズ友達のO村君(一年先輩だけど)が「オッ、下山ハンから聞きよったケ!!」。「今聞いた」。「ホなそう言うこっちゃ。よろしゅうに」。一体何の事やら分からんがOはさっさと車で帰ってしまった。

その週の土曜日アパートまで下山さんが来て楽器を積み込むと「テレビ、テレビ。テレビの仕事」ってやっと種明かしをする。すると毎週岡山に通うわけだ。こりゃ大変だ。メンバーには友達のOも居れば、同級のトロンボーン専攻でありながらベ−ス担当のY田もいる。こりゃウチの大学のポピュラ−陣大集合だわね(って言っても少数派)。

2時間の生放送で歌のバックやったり演奏主体でやったりする。期せずしてプロとしての修業が始まったわけだ。こうなりゃやるしかない。オマケにギャラまでもらえる。アリガタイ。
それから毎週毎週岡山のテレビ局通いが始まる。
しかも生だから失敗してもそのまま流れちゃう。
初見の嵐にヘロヘロになり、最後のコーナーは演奏。

「もう少し譜面台を下げないと手元が写らないよ」
「でもカメラなんか無視して!!」
「スマイル、スマイル!!」
何だか学校での当たり前がドンドン壊れて行く。

「ジングルはキュ−一発で入るからテンポ覚えて」
「ソロは細かい音符よりも分かりやすい音符とリズムで」
「ホラ、もっと顔を上げて演奏しよう」
「見せ場の時はココってところでブレイクを入れるとカメラが追ってくるよ」。

ここで随分多くの事を下山さんからアドヴァイスされた。でも実に多くの事が今日でも自分に生かされてる。そうこうする内にそこでプロとしての必需品に出くわした。これが揃うと完全に演奏活動がこなセル。プロになるなら必要なもの。最後まで学校じゃ教えてくれませんでした。

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[初めて演奏でギャラをもらったテレビ岡山(OHK)のレギュラー番組。
左より下山さん(ds)、私、O(as)、Y田(b)他。私とY田は19才。皆若かったなぁ]




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★プロの必需品
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今でこそ当たり前なんだけど、当時全く気付かなかった必需品。それは免許。そりゃそうだよねぇ。ヴァイブなんて置いてる場所ないもんね。楽器は自分で運ぶ。これ大原則。そして如何なる地へも出かけて行かなければならない。だから通いました。自動車教習所。学生は時間もある(ほんとは無いんだけどね)。オバさんも時間がある(これもきっとホントは無いんだろうけどね)。従って勢い教習所は学生とオバさんの集合体となる。

これが凄い。車が荒馬の如く飛び跳ねてるわ、坂道はズリ下がるわ、コーナーではキュルキュル言わすわ。動物園状態。

「よ〜し、今日はコーナーを素早くターンするからナ」
「ハイ」
「じゃあ、まず、最初の直線は50kmで。そしてカーブは30kmに減速。続いてS字に入る」
「ハイ」。
まるでF1レーサーの気分。
「じゃあスタート」
「ハイ」。

ブルルルル.....。

「50kmまで加速だぞ」
「ハイ」。アクセル一発。

「ムム、あの車変だなぁ」
「エッどの車?」
「あれだアレ。12号車」
「あれですか」
「そう」

尚も加速。

「チッ。仕方ないな。じゃ追いこし車線に入ってアレをやり過ごす」
「ハイ」
カチッカチッ(ウィンカーの音)。
「アッ、コラ。今何キロで走ってるんだ」
「エッ?え〜と。あっ65kmでした」
「こりゃスピード違反になるぞ」
「ハイ」
「もうすぐカーブだから減速」
「はい」
「オイ、減速」
「はい」
「あっヤバイ」
「エ?」

と内側のキツいコーナーでタイヤが唸る。
キュルキュルキュル。

「ダメ〜〜」っと教官がブレーキを踏むがこっちも思いっきりブレーキを踏んだ。

「アッ、コラ!踏むな」
「ハイ」
って足を外した瞬間、目の前の景色がゆっくりと右から左へ流れる。回転木馬だ、お祭りだ。
ワ〜〜っ...........................。

止まった目の前をゆっくりと12号車がロディオのように飛び跳ねながら通り過ぎる。
教官曰く「君はスピードの感覚がチと早い。何かそんな運転する人の助手席に乗り馴れてるのか?」
「いいえ」
「そうか、でもそれは免許取ってから気をつけな」.....。
う〜む。一つだけ心当たりがある。それはチャリで学校に通う時、長い下り坂を思いっきりスピ−ド出して下るのが好きで、一度だけパトカーに止められた事がある。「君ねぇ、この道は30km規制なんよ。君、今何キロで走ってたと思う?」「いや〜っ、ちょっと、わっ、わからないです」「50キロ」「っへ?」「立派なスピ−ド違反なんだけどねぇ。チャリだから........」「はぁ」「以後気をつけるように」「はい」。その頃はまだ部分的にチャリが車道を走れた頃なので、いつも渋滞する車を横目にスイスイ走ってた。チャリも立派な道路交通法が適応される車両とは...........。ホントこの時期は知らなかった事だらけ。でも無事に車の免許は取得。教官の言葉通り2日後に早速スピ−ド違反で掴まってしまった。車の運転というのは今まで知らなかった社会の常識を目のあたりにする。道路は安全に走りましょう。教官、あなたは正しかった。



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★初めてのビ−タ(旅の話し)鳥取5ペニーズ
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免許、車と取りあえず自分の楽器を運ぶものは揃った。岡山のテレビ局はレギューラーなので中古のヴァイブ(コッスと言うメ−カ−。上の写真)を購入してスタジオに置く事にした。手元で使う楽器をいちいち運んでいては万が一の渋滞でスタジオに駆け込む時に組み立てる時間が無いからだ。幸いにも穴を空ける事はなかったが.......。そう、本番の集合時間は1時間前。これは掟だった。今でも変わらない。この掟を知ったのもこの仕事のおかげで、学生だけの感覚なら5分前入りで平気な顔してただろうなぁ(でも今日の首都圏の混雑はその信念を儚くも奪い去る事態が...........................辛いっス)。

土曜の昼は岡山でテレビをやり、再び津山に舞い戻ってライブをこなす(500マイルというオーディオショップの喫茶店が多かった)。また、例の日曜日に「ゆくみ」でライブをやる。少しずつ演奏活動というものが始まっていたそんな時、下山さんが「今度の土曜日はテレビの後はすぐに鳥取へ向う」という。土地感の無い人の為に説明すると、岡山市と鳥取市の中間に津山市がある。瀬戸内海から日本海への縦断って事になる。朝津山を出て60km、午後4時に岡山を出て150km、再び津山へ戻る80km。これを全て一般国道で移動するのだ。しかも土曜日。「大丈夫ですか?」「うん。鳥取は午後9時からだから十分間に合うよ」と下山さん。

合計約300km走行のツアーは始まる。まずこの日は普段のOとY田に変わり「ゆくみ」セッションの三戸氏(ts)、小坂氏(b)、松永氏(p)に僕と下山さんで岡山に向う。まだ元気。いつものコース。車3台での縦走は楽しくもあり面白くもあり。空いてる所ではちょっとオチャメな運転なんて余裕もある。岡山市の入り口で若干の渋滞はあるものの局には1時間前に到着。やがて本番が始まり午後4時に放送が終わる。いつもはここで自由解散なんだけど今日は3台まとまって鳥取へと向う。まぁ少々混んでるけどねぇ。ちょっと混んでるかなぁ............。う〜ん、やや混んでるみたい。

でもまだ午後5時だし、ちょっとメシ(時々シ〜メなんてさらに下品な表現もした)でも食ってやり過ごしましょうかって事になる。約60kmを2時間かけて津山手前のドライブインに入り、この先の先導役になる500のマイルのマスターに連絡。しばし夕食と休憩。

「さぁ、後2時間強ってとこだから40分は休めるね。みんな疲れてない?」「大丈夫っスよ」と一同。思い思いに休息の後500に行く。
ここでもう1台500のマスターの車が加わり計4台。

「あと2時間もあれば着くから楽勝だね。さあ、あと80km。安全運転で行きましょう」とは下山さんの弁。
「2時間もかかるわけゃねーで。1時間くりゃーで着くがね」とは500のマスター。

っとドアを閉めるないなや先導の500のBMWは瞬く間にダッシュ。負けじとあとの3台も追尾開始。下山さんの弁はどこへやら。でもまだダッシュ出来るほど全員余力は十分にあった。

津山からは鳥取までさほど大きな町は無く、渋滞も予想しない。道はどんどん登りになり山を越えて行く。分水嶺である那岐山まで登ればあとは下り。その分水嶺にある黒尾トンネルという場所を境に鳥取県に入る。さぁ、後50kmってとこで先導のBMWがハザードを付けて減速。「何だろう?」って一同減速しながらトンネルを出る。と....................。まさに.........................................。

一面真っ白。霧である。前の車のテールランプが霞む。峠を越えただけで全然気候が違うのだわね。ガードレールも定かでは無く、頼りは先導のBMWだけ。

「こりゃ参ったなぁ」
「10m先が見えん」
「下りカーブの連続やからなぁ...................」。

一同路肩に車を止め、しばし呆然。あたりは真っ暗、いや真っ白。でもとにかく行かなきゃならぬ。

頭の中を「霧の黒尾峠で車4台転落」とか「霧の中、無謀初心者対向車線で正面衝突」とか
「恐怖の霧車4台玉突き」なんて不吉な見出しがテロップよろしく前の車のテールランプに重なるのだがこれじゃあいけない。
景気付けにラジオを付けたら山間部で「ザ〜〜〜」っという砂荒らし。仕方ないからカセットに変えたくても昨日車内を掃除して今日はカセットを積み忘れた。したがって一本もテープが無い。
おまけにさっき食べたものが消化を始め眠気も漂い始める。
さらに昼間の放送は薄暗いライトで譜面を追ったおかげで目も疲労してきた。
前の車のテールランプがやけに乱反射して神経を使う。
車は一向に10キロ前後のノロノロで右へ左へのカーブを繰り返す。

「初心者ドライバー霧に塗れて方向感覚を失う」
とかまた良からぬテロップがちらつく頃、40分は経過しただろうか。智頭という町に差しかかってやっと霧が晴れた。ソレ〜〜っとばかりに先導のBMWがダッシュ。一同床を踏み抜かんばかりにアクセルを踏む。そこからの運転の凄まじさといったらラリ−顔負けである。何だか4台でレースやってるみたいだけど、もう時間が無い。ゴメンナサイの世界。トラックは抜くはちょっと遅い車は追い越すわ(でもちゃんと追い越し区間でね)で午後8時40分鳥取「5ペニーズ」に到着。

20分で一同楽器を組み立てるべく、またしても猛然とダッシュ。ほんと鳥取県に入ってから何事もダッシュばかりしている。すると5ペニーズのマスター曰く

「あんまり遅いんで、こりゃ皆黒尾峠で落ちた思うとったんダガ」(ダガは鳥取弁のようで最後に付く言葉のようだ)。

一同怯む間も無くセッティングに集中。っで若干遅れて本番とあいなった。メデタシ。2setやって午後11時を回る頃、「んっじゃあなあ、アレやってヤ。それでお開きにしようャ」。マスター峰さんの言う「アレ」とはコルトレーンのImpressions。この店では最後はこの曲で閉めるというオヤクソクがあるらしい。もうこれで今日はおしまいってドーなってもエーけんねって全力疾走Impressionsダッシュ!!。マスターは演奏が盛り上がると「ウォ〜!!」って吠えるわ、こちらは体力残量ゼロ状態だわ、さぁ、これでエンディングだと思ったら「マダマダ!!!!」ってマスターが煽るわ、こうなったら奥の手とドラムの長いフリーソロに回しつつ予備燃料使い果たすわでやっとダッシュ演奏終わったの午前0時に限り無く近し。

終わってヘロヘロになってると「今日はなかなか面白かったダガなぁ(これ打ち消しではありません。鳥取弁)」と峰さん。「そしたらこれからエエとこ連れてっちゃるダガ」。一同カゲロウのように項垂れ車に乗り込み(すでに魂も楽器とともに撤収してしまった)、先導する峰さんの車に続く。午前2時だ。ヘロヘロになった車3台とやや元気な500のBMWと超元気な5ペニーズ峰さんのスプリンターLBの計5台は鳥取の郊外の港へと続く。

スルスルスルと脇道に入ってからの記憶は殆ど無い。「ここじゃあ。ココ」元気な峰さんは車を降りてオイデオイデしている。一軒の民宿のような建物に入り通されたその先にあったものは.........................。蟹、カニ、かにの山積み。そう鳥取と言えば松葉カニ。天井に届こうかと言う程鍋にカニ、蟹、かに。

ゲンキンなものでヘロヘロのドロドロのくせして一同「うぉ〜!」と雄叫びを上げ、「好きなだけ食うちゃれヤ」という峰さんの言葉が聞こえるやいなや、再び一同この日5度めのダッシュ!!。目は欄欄と輝きカニの足をむさぼり、みそを啜り「っんまい!!」の連続。テーブルに蟹の破片が散らばろうが無情にも分解された蟹の一辺の足が落ちようが、おかまい無しに次々と蟹を貪る。食べても食べても山は減らない。でも食べる。食べ続ける。「ガニ〜、ガニ〜」っと蟹酩酊状態に陥る者も続出。しかしそれ程この時の蟹は上手かった。「そない食うならおかわりしょうか?」と蟹酩酊集団の様子を察した峰さんが言うが、さすがに酩酊にも限界がある。午前4時。我々の蟹酩酊勤行は終わりを告げる(いや満腹で終焉を告げざるを得なかった)。

5ペニーズのマスター峰さんにお礼と別れを告げ、鳥取を後にしたのは午前5時。「ガニ〜ガニ〜」とテンションの上がったまま再び一同ダッシュ!!。どうも鳥取県に入るとダッシュしなければならない衝動にかられるような.............、黒尾トンネルを抜け、津山に辿り着いたのは午前7時の事だった。運転トータル9時間、演奏トータル5時間、蟹酩酊ト−タル2時間。走行距離300km、ダッシュ6回のこの初のビータ。体力がなきゃやってられないコノ世界を実感させてくれた。

その後鳥取の「5ペニーズ」には在学中に津山のバンドで何回も訪れ、Berklee卒業後も一度ギターの道下とデュオで訪れた。もちろん最後はImpressionsでダッシュしたのは言うまでもない。いつの時代でも変わらない。変わらない事って素晴らしい事だと思う。



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★海の上でのハプニング(船のビータ)
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ビ−タ(旅の仕事)では時々思わぬハプニングが起こったり我々が起こしたりするものだ。駆け出しの頃から今日までビータの話題はミュージシャンの間で尽きない。そんな事がまだ新鮮な頃のお話。(今でもビータすると何か起こるから不思議................................)

平日学生・週末ミュージシャン修業の生活を始めて初めての夏。学校は休みに入ったから少し期間の長いビータも入る。山を越え、谷を越え目指すところは街ばかりではない。

今日は海の上。
そう、船の仕事だ。

もちろん我々が船を操舵するわけじゃあない。演奏してお仕事するのだ。下山さん曰く「船の仕事は楽だよ。だってチョコっと演奏する時間以外自由なんだから」。確かに。1時間ちょっとの仕事で後は船でのんびりしてりゃいいんだ。寝てたっていい。時間がくれば気ままに食事すればいい、おまけに飲み物も全部自由らしい。

19才そこそこの学生にとって「何もしないでギャラと食事と旅で知らない土地に行ける」事は願ってもない天国のような環境。

おっと何もしないんじゃなくてチョット演奏するって事を忘れてしまいそう。でも一抹の不安もあった。時々この我々のリーダーの読みはハズれる事もあるからだ。その一抹の不安を先に聞かなければならない。

「あのぅ、まさかその船って小さいナンテコトないですよねぇ?」
「1万トンって言ってたよ」。
「ハハァ〜。恐れ入りました」。
一抹の不安はこれで解消。勇んで船中の人となった。

船の名前はここでは臥せるが割と有名な船だった。
乗員(勿論夏のアルバイト多数)と我々と機材が岡山港から乗り込み、夕方広島港から客を乗せ翌朝和歌山港で客を降ろし、夕方別の客を乗せ、再び広島港で降ろしの繰り返し5日間。
いわゆるチャーター船である。現在のクルーズシップに比べれば船も豪華絢爛とは行かないものの、それなりに風格のあるもので我々は船内にあるホールで毎夜午後8時から1時間強演奏すればよい。
飲食は自由(ダータ)である。

まぁ瀬戸内海ってとこは大波など皆無で昼間の航海は優雅なもの。この広い船の中でのんびり過ごす。子供の頃から乗り物という乗り物は全部好きで、船旅も何度か経験してる。特に印象に残ってるのは小学生の頃、九州からの帰りに別府から松山まで乗った関西汽船の「こばると丸」と「あいぼり丸」(なんと驚くなかれ、この船今は横浜港のクルーズ船として活躍している。ロイヤルウイングという名で。何度も乗った船の形は決して忘れないものだ。恐るべきは乗り物好きの記憶力)。
今は殆どがフェリ−(と言っても年々豪華になってる)だけどコレはちゃんとした客船。つまり車の乗らないヤツ。これが好き。当時の新造船で午後3時頃に別府を出港すると黄昏れる夕陽を背に水平線を進む。後ろのデッキから船の軌跡の先に沈む夕陽を眺めてるだけで時間を忘れてしまいそうになる。真っ暗になった海にやや退屈し船内のレストランやパ−ラ−(懐かしい響きだなぁ)に入ったりしてアクビする午後8時頃、ちょうど松山港に着く。子供にとってはほど良い距離と時間の船旅だった。これ以上は限界ってとこだ。

そんなだから昼間の航海はデッキでのんびり、やがて広島に入港し客が乗り込むとその静寂の時間は終了する。船旅は経験あっても船で演奏するのは初めて。さぁ時間になったし、ひとつ演奏してお仕事しなきゃオテント様に申し訳ない。楽しい船旅の憩いの一時。ステージに上がりさて、演奏しようとかまえた。

っんんん?。

何か変だぞ。いつもと何か違う。下山さんのカウントで曲は始まったのだが違和感が漂う。横の三戸氏(sax)を見ると彼もなにか戸惑っている様子。曲が進むにつれ違和感が襲ってくる。でも客席は平然としていて何事も無い様子。下山さんはといえば................................いつもの通り。

ジャカスカやってる。なんでだろ?って気が付くと、アリャリヤ?この船3度くらい右に傾いてる。う〜ん。微妙なんだけど確かに傾いて航行してる。しかもゆっくり、ほんと実にゆっくりだけど水平と右3度の傾きを繰り返してる。そうかぁ、立ってる僕や三戸氏にはそれが分かるけど座ってる下山さんや客はぜんぜん気付かないわけだ。しかも譜面を見てると余計にそれが気になるから不思議だ。

どんな状況下においても演奏しなきゃならないって、こんな事もあるんだなぁ。あんまりする人はいないと思うけどエレベーターの中で単行本を読んでる感じって言えば???わからないっか。これ結構キツイ状態。微妙に音を外しそうになる。立ってるから身体を固定できないんだ。しかも決して左3度にはならないから妙に身体が左方向へ傾こうとする。不自然。高音側がやけに遠く感じる。そのゆっくりローリングが時々体内の血液ローリングと重なりフワフワした感じ。集中力テストだ。まるで。終わってから下山さんに「結構揺れてますねぇ。やりにくいのでびっくりしました」って言うと「っへぇ?揺れてたぁ?僕全然知らなかった」。どうやら僕と三戸氏だけが感じてたらしい。「まぁ、その内に馴れるよ」って言った下山さんの言葉を信じるほかない。

翌日昼前に船を降りた。夕方までOFFである。和歌山は行った事がなかったので、どんな街だか興味があったから。「フムフム、和歌山の中心までは電車かバスで行くべし」。電車好きの僕は迷わず電車にする。

ここは和歌山港駅。抹茶とグレーの南海電鉄だ。「なんば」からは乗った事はあるがこんな突端に乗るなんて初めてだ。「え〜っと、ナニナニ?和歌山市駅と和歌山駅があるな。ここは和歌山市駅に行ってみよう」。なぜそうしたかは簡単な理由がある。
実家のある松山も松山駅と松山市駅の2つがあり市駅と付くのは私鉄の駅というオヤクソクを知ってたのと私鉄の駅の方が賑やかな場合が多いからだ(近鉄の伊賀上野市駅とJRの伊賀上野駅など結構このオヤクソクはあてはまる場所が多い)。っで電車を待つ事しばし。やって来ましたツートンの南海電車。でも随分短い。まぁこんなもんなのだろうと乗り込むとガラガラ。まあ途中から混むサと思えばそのまま10分もしない内に和歌山市駅に着いた。ガラガラのまま。

和歌山といえば和歌山城だろう。って勝手に決めて城の方向へ歩き出す。それにしても暑い。なんかやたらと広い道が真直ぐに続く。夏だから暑いんだけど、ねぇ。まだ真直ぐの道が続く。暑いときって真直ぐの道歩くと随分距離があるように思うのはなぜでしょうねぇ。それにしても暑い。あっここが城だ。って交差点をぐるり見渡したけど、どちらもひたすら真直ぐの道。石垣に沿って.............。暑い。

バスに乗れば良いようなものの、それほどの距離じゃないし、知らない街は歩くのが好きだからと城址へ入る。でもここで限界。暑くておまけに昨夜のローリングでクラクラする。こりゃダメだと思い、しばらくして駅に戻る。再びまっすぐの道。何の変哲も無い。暑い。クラクラ。真直ぐの道。駅に到着。駅は立派だけどこの時の和歌山の印象は何の変哲もないひたすら真直ぐの道。こんなものかねって電車で港へ戻ってしまった。何年か後、和歌山駅に降りた事がある。ナンだ、こっちが賑やかだったんだ、って再発見。訂正。オヤクソクにあてはまらなかったのをその時は知らずにいた。

船に戻ったら三戸氏が「和歌山ってどんなとこ?」って聞くので「ひたすら真直ぐの道ばかりで何も無いとこ」って答えてしまった。今からでも遅くはないから(遅すぎるっちゅうの!!)三戸氏にメールで和歌山はとても変哲のある面白い街って訂正しなきゃ。和歌山の皆さんごめんなさい。

さて、ビータは2往復めの和歌山から広島への航海になった。でも今日は出港時間になってもいっこうに出る気配が無い。通りがかったアテンダントのオネーチャンに「どうしたの?」って聞くと、「予定の2グループのバスが渋滞で1時間半程遅れるようなの」とのお返事。

「出航は2時間程度遅れるわ」。

じゃあ一体演奏は何時からになるんだろうって下山さんに聞いたら1時間程度遅らせるらしい。

パーサー以下2時間の遅れを1時間に短縮すべくアタフタとしている。
いつもなら休憩時間に遊びに来る音楽好きの乗員連中も今日は顔を出さない。
普段なら優雅に歩くアテンダント達もツカツカとヒールの音を立てて2時間の遅れを1時間に短縮すべく俊足で歩く。
僕らもなぜだか夕食をソソクサと済ませゲームホールのピンボールも普段の倍の速度で早撃ちし、
売店の従業員もなぜだか釣り銭を普段の倍のテンポで差し出し、
自動販売機のビールまで2時間の遅れを1時間に短縮すべく勢いよく取り出し口にダイブする(あんまり関係ないか)。
そして船自体も2時間の遅れを1時間とすべく普段優雅にターンして出航するところをドリフト状態でダッシュ。
つられた見送りの人も2時間の遅れを1時間とすべく倍速で手を振りいつまでも船を見送る事なくソソクサと家路につく。
とにかく皆2時間の遅れを1時間とすべく随所でダッシュが行われている模様。

「今日はちょっと揺れるねぇ」。

さすがの下山さんも今日のダッシュでは船の揺れに気が付いてる様子。

「随分飛ばしてますねぇ」
「だから揺れちゃうんだね」。

こんな会話の内に演奏の時間となった。何度かの航海で傾きと揺れには馴れつつあるものの、さすがに今日は飛ばしてるだけあってやや大きくローリングしているから控え室に座っていてもその揺れが伝わってくる。
また、パ−サー以下客までもが2時間の遅れを1時間とすべくアタフタとしている。つられた下山さんも最初の曲のカウントがいつもより早い。
2時間の遅れを1時間に短縮とすべくしたテンポなのだろうか。

船は飛ばす。
ロールは大きい。
客席の客も左右前後にゆっくりロールしながら聞いてる。
演奏してるこっちも体内の血液があらぬ方向へ導くのを踏み留めつつ、やっぱりロールする。
だからかもしれないがテンポも揺れている。
見るとシンバルがゆれる毎にスティックワークでカバーするのだが、身体ごと持って行かれるのでキックが今一不安定な下山さんが上へ下へとゆっくり移動する。
もはや演奏どころではない。
でも続けなきゃならん。
立ってられない程の急激な揺れではないが大きく前後左右にロールしている。
ペダルを踏むと楽器が滑りそう。名演奏と言うのはあるが、これじゃあ酩酊演奏だ。
演奏に一定の重力が必要な事をつくづく実感させられるステージだった。

こんな事もあるさ。って思う間もなく2時間の遅れを1時間に短縮すべくステージを終えた我々はソソクサと各自の船室に戻った。

不思議なもので立っていると前後不覚になるこのローリングもベッドに横になるとなかなか心地よい。普段よりも飛ばしてるせいか船の動力音が大きめに感じる。

「いゃ〜、まるで酩酊状態だったなぁ」
「オレなんかサックス吹くたびに血液が逆流してヒザが笑っちゃった」
「楽器が動きそうで困っちゃった」。

シャワーの後下山さんの船室に集まり皆で飲んでいた時だった。

午前2時頃の事。突然ウンウン唸ってた船の動力機関の音が静かになって「アレレ?」って皆が気付いた頃には船はまるで波ひとつ無い凪ぎを進むようにスーって流れてその内にエンジンも止まり、やがて10分後には船も止まってしまった。

「オイオイ飛ばし過ぎて壊れちゃったんかい?」

と一同不安になる。

「まさか.........沈没??」
「こんな真っ暗な海で????」。

不吉な連想は尾ヒレを付けて広がる。

「オイオイ」って三戸氏が窓を覗き込む。

「あれ〜?。なんかこの船に小さな船が横付けしてますよぉ??」。
「どらどら」って一同窓の外を覗き込む。

確かに暗くてよく見えないがこの船の横に小さな船が横付けしている。

「衝突でもしたのかなぁ??」
「飛ばしてたもんねぇ」....................。

30分くらい経っただろうか、やがてエンジンのかかる音がして船か動きだした。横付けしていた小さな船も赤い回転灯をつけながら離れて行く。取りあえず船は無事のようだ。一同ホッとしてそれぞれの船室に戻り寝た。

翌日三戸氏が仲良くなった乗員から昨夜の停止の理由を入手。それを聞いた一同、朝食時に唖然とした。確かにそれはそうだろうれど。まさか海の上でねぇ。我々の知らない事ってまだまだ一杯あるんだなぁ。一同それがとても身近な原因だけに驚きも一入。

三戸氏は語る。

「アノネ、キノウ、コノフネ、チョット、トバシテタデショ。ツカマッタンデス。スピードイハン。カイジョウジュンシテイニ。イワユル、ウミノ、ネズミトリ!!!!!!!。」

ハプニングの内に終了した初めてのツアーシップ・ギグだった。

 [98年10月5日記]




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音楽体験記ー4
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Nov/20/2004/記

ジャズとの出会い、ゲイリー・バートン氏との出会い、ヴァイブとの出会い

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Photo[Annex82/於:日本青年館ホール/1982年5月/duet w/高橋佳作(p)]


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◆今回のmenu
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[ヴァイビスト都に上る]
★Keyを告げられたら、、、 
★ちょっと歴史? 
★バンマスと議論の果てに 
★怪しい、、の巻 フリージャズ初体験 
★お寺でジャズフェス!? 
★突然の第五次接近遭遇=Here's That Rainy Day
★作曲しましょう
★忘れられない音楽仲間達-その1
★リーダーバンドで初ツアー1981春
★忘れられない音楽仲間達-その2
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一体何年この体験記の更新を怠っているのだッ!!、、、というお叱りのメールにようやくお応えする今回。まずは東京に出て来た頃の記憶を徒然なるままに、、、



何だかんだと岡山の山の中の生活を無事終了(つまり卒業)したヴァイビストはS教授の紹介で東京近郊のハコに潜り込む事になった。卒業してすぐに仕事が入る音楽の世界ではないし、まして地方からポンと飛び出してとなると何か取っ掛かりがないと困難だった。ハコとは毎晩同じメンバーで決まった時間に演奏する仕事場の事を言う。今では殆ど見かけなくなったが、一部のライブハウスには同じような感じの店もあるので理解出来るかもしれない。毎晩演奏して月々のギャラが貰えて天国のような場所と思うかも知れないが、現実はそんなに甘くはない。何がって、、それは演奏する音楽に対してのストレスというとても大きな問題だった。しかし、そんな事とは知らずホイホイと出て来たヴァイビストは何をやっていたか、、、、


□■□■□■□[東京で最初にやった事]■□■□■□■

家財道具を積んだトロンボーン専攻のN川君とH頭君が運転するレンタカーと楽器を積んだ僕の車が、けだるい陽射しに照らされる渋谷の渋滞に巻き込まれていたのは、津山を出てから一晩過ぎた頃だった。カーナビなんか無い時代の事、都心環状線を2周したのは言うまでもない。パズルのような首都高速にさっき地方から飛び出して来た者がかなうわけがない。ぐるりん、ぐるりんと迷いながらも新居に到着した頃にはすっかり太陽が西に傾いていた。

あたふたと家財道具を部屋に押し込んで近くの鰻屋で乾杯したのはもう午後9時を過ぎていた。しばしバカ話で盛り上がった後、宿に向かった彼等を見送り1人雑然とした部屋に戻った時にはさすがに不安が込み上げて来て寂しくなった。頬を伝う並だ、いや、波だ、ウン?並みだ、もとい、浪だ、何だ? なみだ、そう、涙(せっかくいいトコろだったのに、この米国生まれのパソコンは変換というものを知らない)。ジャズでも聴いて心を嫌そう、うん? イヤそう、コラ! 厭そう、ど−する? 癒そう、よし!、癒そうとするがまだレコードの梱包を溶いて、何? 説いて、くどいてどーする! 説いて、説明はイラン! いやいらん! 融いて、違う! 解いて、そう、解いてない。布うーっ疲れ田!?!? ふうーっ、疲れた。。。そんなわけで瀟々、うん?少将、誰がじゃ! 少々センチメンタルな気分で過ごしたこの寄るの、違う! 因る、はァ? 夜の事はよく覚えている。(頼むから先に行かせてくれー!●ac君)

が、。しかし。

一晩練る、もとい、寝るとコロっと忘れるこの性格ですから、早速翌日から行動に入った。東京で最初にやった事。何だと思います? 電話の加入権を買う事?まま、それもあり(最近それを加入者が減ったからチャラにしようなんてーヤカラがいますが、キチンと返却しろ!)。公共料金の開設?それも、ままあり。でも正解は深夜のドライブ。はぁ?って思うかもしれないが、マジっすよ。

ハコでの演奏が午後11時に終わる。するとそのまま帰ればいいんだけど、そこから首都高めぐりが始まる。なぜ?理由は簡単、まず東京の位置関係を覚える事。

今までは電車で来てフラフラとレッスンの帰りに新宿とか渋谷とかでジャズ喫茶やライブハウスを巡ってたんだけど、いざ住むとなると楽器があるから車移動が原則になる。ならばまず道を知らなきゃ何にも出来ないという訳で深夜の首都高巡りが始まったわけ。それと日中の渋滞は出て来た途端に洗礼を受けたので空いてる深夜が効率もよかった。

とにかく都心環状線に乗ってターゲットを決める。ある時は新宿、ある時は銀座、ある時は横浜、、なんて具合に。そしてそれが慣れたら今度は下道でターゲットを目指す。今でもよく覚えているのは靖国通りを走っていて新宿の「J」を見掛けた時だ。当時(正確には津山時代)オールナイトニッポンではタモリがDJを担当する日があり「ハナモゲラ語」とかで盛り上がるとよく出て来た店が「J」だった。ピットインとかはレッスンで通っていた頃に何度も電車で行ったので馴染みがあったが、ちょっと駅から離れた店はこの時にいろいろと場所を確認したものです。そんなこんなで、ドライブしながらの地理学習が最初にやった事なのでした。
今ではカーナビがあるし、そんな事する必要もないけど、深夜の東京は何かゾクゾクするものがあったなぁ、、。渋滞はごめんだけど。

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★Keyを告げられたら、、

毎晩演奏すると言っても、曲は膨大な数ほどある。スタンダードと呼ばれるものを演奏する時にベテランはメモリ−(暗譜)でスラスラ演奏するが、駆け出しのヴァイビストはメモリ−不足。従ってメモ帳というものを毎晩コツコツと写しては作る。今夜演奏して知らなかった曲があったらまた写す。それの繰り返し。書くと覚えると言いますが、あれは限界があります。書いても書いてもまだまだ曲があるから追い付かない。

一度やった曲はkeyと曲名を言われたら出なきゃならない。バンマスはギターのFさん。「次はナントカ。ほら、この間やったやつ、keyはEb」でジャーンと始まるから譜面を探してる暇がない。時には「えーっと、曲名なんだッケ、これ、これ」でジャーン。もうコーなると譜面探すのは放棄してやるしかない。時には優しいベースのS田君やK川さんがソッとメモ帳を渡してくれるんだけど、時々みんな怪しい時もある(笑)。もうコーなると耳はダンボ状態でメロディーを聞き取りながらkeyの中で循環するコードの目安と転調の予測をしながら弾くしかない。テーマの時に「あそこは当った」「ここは外れた」などと不謹慎な博打のようなものだ。時にはソロの先頭になる事もあるからバックの音を必死で聴いてやるしかないし。その内に慣れて来ると曲名を告げずkeyも告げずイントロが始まるようになる。が、何となくスタンダードの場合はその仕組みが把握出来たから慣れとは不思議なものだ。お陰で曲名は知らないが「あ、この曲やった事がある」というものが随分ある。でも油断すると途中の転調から違う曲に行ってしまうから始末が悪い。やはりちゃんと譜面に書こう、と決心したヴァイビスト。

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★ちょっと歴史?

このバンドでピアノとキーボードを弾いていた小林さんという方は実はヴァイビストで、昼間は神田で喫茶店を経営していた。年齢は当時50歳前後だったと思う。僕も交替でピアノを弾いたりヴァイブを弾いたりしたので演奏を聴く機会があった。小林さんによれば昔はハコにヴァイビストがたくさんいたそうだ。

なぜそんなにヴァイビストがいたのかを聞いたら理由が明解だったので書いておきましょう。当時(と、言っても僕のじゃなくて小林さん達が演奏を始めた頃)ジョージ・シアリングのグループのサウンドがハコで大受けだったらしくギターとヴァイブがユニゾンでメロディーを演奏しピアノがブロック・コード(メロディーに対しての内声付け)を挿入するスタイルが多かった事。そしてもっと面白かったのが、シアリング・ブームの前まではピアノがたいへん高価で店が所有する余裕が無かったがヴァイブなら値段も知れてたので備品として設置した店が多かった事。それがそのままシアリング・ブームとなってちょっとした店では必ずヴァイブがいたらしい。この当時(今度は僕の当時)の50歳代以上のキーボード奏者には元ヴァイビストがたくさんいらっしゃったようだ。なるほど経済的な理由ってぇのがあったんですねぇ。

しかし、その後ピアノがどの店にも入るようになって、ピアノがあれば鍵盤は他にはいらんな、と、これまたギャラの経済的な理由でヴァイブが減っていったという歴史もあるのです。ううん。。。経済的な理由に左右されるんですかぁ、、、繁栄と衰退にそれが大きく影響していたとは、、、、それじゃいけませんね。存在価値を高めるように頑張らねば。

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★バンマスとの論議の果てに、、

数カ月が過ぎ、修行の場として飛び込んだ所だったけど、大体の事を覚えたヴァイビストは書いたメモ帳の曲で少しだけ自分が聞いているレコードとサウンドが違う事に気付きバンマスギターF氏に「ここはこうしませんか?」と生意気にも意見するようになっていた。

この頃ハコの社長(実は元ドラマー)の紹介でHさんというアレンジャーの方に昼間はコードセオリーとアレンジを習っていたので実践したかったのだと思う。また夜な夜なビル・エヴァンスやキース・ジャレットの曲をコピーしては持って行き「今日はこれをやりましょうよ」とか、、。今考えるとフトドキモノである。
この頃は深夜ドライブもする必要がなくなったので電車で通っていたヴァイビストはある時バンマスに呼ばれた「今日帰りに送ってくから少し話をしよう」。

帰りの車の中でバンマスと2時間も論議した。
「you(バンマスの口癖)がやりたい曲は一般には受けんよ。そういうのは自分で作った場所でやらなきゃ。あそこはそういう場所ではない」
「どうしてですか?ちゃんとやる事はクレームが来ないようにやっているのだからいいじゃ無いですか」、、、今考えると反省しきり、若気のいたりである。

翌日も、その翌日も帰りの論議は続き、心配したバンマスのお嬢さんが向えに来たほどだ。
「お互いにひと月様子を見よう」というバンマスの言葉でその日は終えるものの、また翌日になると休憩時間から同じ論議の繰り返しになる。クビにされなかっただけでも感謝だと今なら思えるんだけど、その時は何か必死だったからなぁ。。
つまりは「なぜこの曲をやってはいけないのか」という理由をトクトクと説明してくれたにも関わらず僕は納得しなかったようだ。

でも今思うと、そんなに親身になってくれるバンマスなんてそういるもんじゃない。そこでいろんな話しをした事はいつまでも忘れないでいる。

そんな状態の中、ベースのトラで来た人に「おもしろい曲やってんねぇ。今度遊びにおいでよ」と声が掛かった。ジャムセッションだった。そうか、ハコでやれない事はこういう場所で解消出来るんだ。そう思ってその場にいたドラムのM浦さんに声を掛けたら「いい人紹介しますよ」と言って電話番号をもらった。ギターのA井君と言う人だつた。後日ドラムの人とベースのO平君を紹介してもらい、一度何処かでやろう、という事になり高円寺のスタジオを借りてリハーサルをやる事に。

その時に持ち寄った曲はバラバラでスタッフの曲やらオリジナルやらカーラ・ブレイの曲(これは僕/バレばれ?笑)やらでまとまりは無かったが一つのやり方が見つかった気がした。感心したのはギターのA井君の曲でそのサンプル音源を自分で多重録音したものを聞かせてくれた。当時リズムマシーンはまだまだ高価で一般には普及していなかったのにベース(実はギターの低弦を使っていた)ドラム(これが家財道具でドラムの発音とおぼしきものを集めて合成していた)にシンセ。
正に発想が柔軟だから出来る技。本当に感心させられた。

その内にベースのO平君から「月末の週末に茨城県の鹿島という町でライブをするから来ないか?」と誘われて100kmの遠征&徹夜帰還を何度も繰り返す。

何となくいろんな人と関わる内に電話で呼ばれる事が増えるようになった。
ハコという中でやれない事、、、、それこそが自分がやりたい事だった。
そう思った途端に同年輩で同じような事を考えているミュージシャン駆け出しが東京にはゴマンと居る事がわかった。

そうだよなぁ、そりゃそうだよ。と、バンマスの言葉を思い出した。

怪しい風体のヴァイビストが大人しく納まってる場合じゃないよぅ。やりたい事を求めて街に繰り出せばいいんだ。
そして、一ヶ月後、バンマスにこう切り出した。「これからはフリーでやって行きます。お世話になりました。」その時Fバンマスが言ってくれた言葉はわすれていない。

「そうか、いつかはそうなると思ってたよ。いや、俺もね、youにいろいろと刺激されて最近のジャズを聞き始めたんだ。この数カ月は久し振りに楽しかったよ」。
その後Fバンマスとはお嬢さんがジャズ方面に進みたいとの事で何度か連絡で交流があったものの、留学後は御無沙汰になってしまった。
心からの感謝を改めて記したい。

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★怪しい、、の巻

[フリージャズ初体験]

明大前に「キッド・アイラック・ホール」というのがあった。喜怒哀楽に起因する名前だったように思う。この頃知り合っていたドラマーの石田氏が誘ってくれたコンサートがココであった。

Iさんという前衛音楽のピアニストとYさんというフリージャズで著名なベーシスト、クラシックのヴァイオリンK妖艶女史、パーカッションとドラムが石田氏、そしてパフォーマー氏と僕だった。

フリージャズというのはやった事が無かったのでとても興味があったんだ。
打ち合わせに伺ったIさんのマンションでまずぶっ飛んだ。

「これを僕がエンドレスにして流しますから、その中で発言して下さい」とポータブル・テレコにエンドレステープを仕込んで発音を増幅させて行く。

「ふぬぬ。。。」何だかよくわからないが、感心するヴァイビスト。

「発言の時間はこれが途絶えるまで」。

なるほど。

何となく、、。打ち合わせはそれだけで後は雑談となったが、とにかくハプニングだ、というような事をIさんは求めていた。

現代音楽での即興は学生時代に何度か経験があるがジャズでは初めてだ。何が違うんだろう?と冷静かつ期待に包まれて本番を向えた。

ステージが始まるやいなや、例のエンドレステープがあちこちで増幅されている。

うぬぬ、怪しい感じだゾ!

照明が落とされてYさんのベースがオドロオドロしく登場する。

ううぬ、これまた怪しいゾ。

妖艶なK女史のヴァイオリンがベースに絡む。

ウウン、エキゾチック、、。

そこでヴァイブをポロン、と、すると石田氏のドラムがグヲン・ガッシャーンと反応する。
ピアノのI氏は時々「っハァ!」とか言って大見得を切ったりしている。
そこにパフォーマンス氏が全身タイツ姿で登場し何やら舞いを始める。

ううん、、益々怪しくなって来た。

ガッポン、ぐを、グァッシャーン、ポコポコ、ヒューン、

「ハラモケレメタヤリーノ、サバラサバラ、ヘテカナラシトゥワ、ッボ、キャーラメレシイテータ!」

グァッシャーン、ポコポコ、ヒューン、

「ハラモケレメタヤリーノ、サバラサバラ、ヘテカナラシトゥワ〜!」

ガッポン、ぐを、、、

「サラ、タンバラメケタリノソー!」ポケポケ、コロ。

ギュアーン、「ヘレ、キッパジンバラサンタメレケ〜!」

グルグル、ギョワーーーン、シュシュッ、キーン

「サン、サバレキ!」グワーーーン、キュルキュポケッ、ズォー。

「サン、サバレキ!」グルグル、ギョワーン、シュシュッ、・・・

何だかわからんが、演奏者も観客も妙に興奮して来たゾ・・・・「サン、サバレキ!」グルグル、ギョワーン、シュシュッ、

「サン・タバレキ・メケレソ・フルッバ!」グシャン、ガラガラ、チーン、ポロン、モキッ・・・

いよいよクライマックスか?・・・

シャーンシャーンシャーンシャーン、ギューギューギューギュー、キーコキーコキーコキーコ、ポローンポローンポローンボローン、

「グゥアーーーーーーーーーー!;」・・・と叫びながらパフォーマンス氏はステージ中央に備えられた白いスクリーンな向けて赤いスプレーを噴射している・・・・

「サラ・サンバラ・タバレキメケレツ、サラ・サンバラ・タバレキメケレツ、サラ・サンバラ・タバレキメケレツ、サラ・サンバラ・タバレキメケレツ......;」・・・

シューという最後の一滴まで噴射しその場に倒れこむパフォーマンス氏。
それを見てベースを持ち弾きながらウロウロとステージを歩き出すY氏、
「うぐぐぐぐぅ・・」と低い唸り声を発するI氏、、、、、、
最後の瞬間に妖艶ヴァイオリンのk女史が思いっきり不協和音でギュ、ギュッギュ、、、、でエンド。

一同礼をしステージは終わり熱狂的な拍手に包まれる。
今まででやった一番怪しい音楽だったかもしれない。。。。。いや、待てよ、そう言えば、ありとあらゆる楽器を並べて即興でやった高校音楽科のウィークデイ・コンサートというものがあったか、、、、、。
いや、しかし、、、スプレー噴射にまでは至らなかったからなぁ。。。

ううん。。。。。流石は東京。好みもいろいろ、音楽もいろいろだぁ。。

終わってから1人ステージの中央で何やらゴシゴシやってるI氏がいる。
どうしたんですか? 「いや、ちょっとね、このラッカーがステージにベットリはまずいのよー」とシンナーを使って剥がすのに躍起。何かその姿が当時のTV「突然ガバチョ」で鶴瓶が扮するエプロンおばさんっぽくて、とっても怪しく印象に残っている。東京は面白くも怪しい街だ。

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★お寺でジャズフェス!?

この頃になると初のリーダーバンドを作って東京近郊のライブハウスに出演するようになっていた。
第一期と言ってもいいこの頃のバンドのメンバーは、赤松(vib)須藤弘児(sax)高橋正(b)石田和也、または鈴鹿博昭(ds)。最年少リーダーの僕は23歳でメンバーは皆30代。僕よりは一回り上の世代だった。

それまでにいろんな人とセッションやリハーサルをやって落ち着いたら自分が一番弱輩者になってしまったようで、ジャズの中でも当時僕が目指していた音楽が同年輩よりも少し上に理解されやすかったからだろう。なんせ当時はフュージョン・ブームの最盛期の事だから若いミュージシャンは皆そっちを向いていてコンテンポラリーとかECMとかモダンジャズを独自の語法でやろう、なーんて天の邪鬼にはなかなか出会えなかったし、僕の至らぬ点(演奏を含めて)をフォローしてくれるだけの余裕が無かった。

またジャズを聴き始めた時期が少々早かったので聴く音楽の趣向というものがこの世代の人達と近かったのかもしれない。ジャズってある意味、その時代の空気を切り取って音に詰め込んでいるような部分もあるから。
最もお世話になったのが府中にあった「ナチャラル・ボックス」。後に店は隣にあったクリーニング屋(いつも僕らが店の前に駐車するので「由々しき光線」をグリグリ発していた、、)を吸収し増築されオーナーが代わって「バベル2nd」と呼ばれるようになった。

バベルの時代も通して当時から演奏活動をしているミュージシャンにとっては誰もが懐かしい店だと思う。「ナチュラル・ボックス」の時代を知っているのはもう少数派かもしれない。
出演の切っ掛けはドラムのS氏の紹介だったように思う。しかし、このお店、ホントーーーーーにお客さんが入らなかった。
時にはメンバーの数と同じくらいで、開き直ったバベルのマスターは「月間客入りワースト・ランキング」(笑)を付けていたほどだ。

でも、そんな状態でも好きな事をやらせてくれて他の店の売り上げを注ぎ込んでまで僕らの活動の場を守り続けてくれた。当時のジャズメンは武士は喰わねど高楊枝、、的なところが災いしてたようにも思う。スミマセン。。

で、ちょっといろいろな怪しい音楽事務所からの勧誘に巻き込まれそうになった時に、偶然にもレコーディング(デモ)で行った場所が茨城県のあるお寺だった。録音してくれる放送局のエンジニア氏と共に三日間泊まり込む事に。しかし怪しいマネージャー氏が席を外した隙に、住職(ジャズ和尚として高名な)O氏が「あのですねぇ、ちょっといいですか?」と怪しいマネージャー氏がなぜココに来るようになったかなどを話してくれた。ちょうど僕らも彼は怪しいから手を切ろうと考えていたのだ。

「じゃあ、決まりですね」との一言で「脱出作戦」は決行された。のちにO氏と話した時に「てっきり怪しいM氏の仲間だと思ってたんですよ。良かった、仲間じゃなくて」と。O氏は僕らの演奏を聞き、録音エンジニア氏の協力の元、地元の放送局やO氏が毎月出筆していた雑誌のジャズコラムに紹介までして下さった。本当に感謝。

で、ある時、電話が鳴って出たら柔らかいO氏の声がした。「お元気ですか? 実はですねぇ、毎年夏にウチで“ジャズと説法”という二日間のジャズイベントをやってまして、毎年沢山の方が泊まり込みで来られるんですよ。それで相談ですが今年の夏にそこで演奏してみませんか? 折角お知り合いになったのだから、どうです?」。

勿論断るはずが無い。即刻「ハイ」と返事をした。後日わかった事だが、この時にO氏から「ドラムの上手い中学生がいるんですよ。ジャムセッションで一緒にやってみませんか?」と薦められて共演したのが小山太郎君だった。また、太郎君と同級生で現在北関東で精力的に活躍しているヴァイビスト小林啓一君ともこの時に出会っている。昨年二人に会ってこの話しになった時、「その時のカセットテープが残ってますよ」と小林氏。太郎君も「ウチも」。もぅ、今さらカンベンしてよーーー若気のいたりは空中に消えてるはずだゾーっ(汗)、と鮮明にその時の事を思い出してしまった。。。

で、その時のジャズイベント「サマー・ナイト・イン寺子屋」のお話、をする前に、僕としてはかなり大きい事件があった。それを先に書く事にしよう。いや、これを書かんとメールでクレームの嵐が、、、、、(大汗)


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★突然の第五次接近遭遇=Here's That Rainy Day

いよいよと言うか、遂にと言うか、その時は突然やって来た。1981年2月下旬の事だった。この頃になると高校音楽科後輩のT山が桐朋学園に入り何かと交流を再開していた。マリンバの師匠である安倍圭子先生から突然の知らせが入ったのはそんな時だった。「あら、赤松さんお元気? ところで3月某日の午後はお時間あるかしら?」「はい。空いていまーーす」「そう、あら、良かった。それではね、その日の午後にゲイリーが家に来る事になったのでいらっしゃいませんか?」「ふへぇ?、は」思わず聞き逃しそうになったのでもう一度復唱する事に、、「ゲ、ゲイリーがですか?」俄然コーフンして来たヴァイビストは、思いっきりカミながら「ぜし、行かせていたらぎましゅ、、ます。マス!」。

実はこの数日前に芝の郵便貯金ホールでチック・コリアとゲイリー・バートンのミラクル・デュオを堪能していたところだった。このタイミングを逃してなるものか。と、3月某日は早起きをし準備体操をし(何のや!?)一路安倍先生宅を目指す。途中T山他桐朋の面々、留学生と地下鉄の駅近くで待ち合わせる。レッスンで通い慣れた道、細い道を何を話しながら歩いたのかは覚えていないが、安倍邸が近付くにつれ、心拍数はアッチェルランドしたのは言うまでも無い。ただでさえマリンバのレッスンで高校時代この安倍邸が近付くと緊張したものだが、今回は二乗、いや十乗。

コンコン、と第五次接近遭遇のドアをノックして入ったレッスン室(すでにこのレッスン室と言うだけで緊張してしまうものだ)に入ると、既にゲイリー氏は歓談していた。先生が私のレッスン生達です、と紹介してくれてニコリとするゲイリー氏。ごくごくプライベートな集まりだったにも関わらず、この時の模様はアメリカの雑誌「パーカッション」に同行した留学生のレポートとして写真入りで載っている。「世界の二大マレット奏者(ケイコ・アベとゲイリー・バートン)が東京で再会」というような記事になった本を後日留学生から貰った(ちなみにこの号の裏表紙はMusserの広告で被写体はダブルイメージ)。ゲイリ−氏と一緒に写った最初の記念すべき写真でもある。

ゲイリー氏は簡単なヴァイブのレクチャーとソロ演奏(Blame It On My Youth)を僕らにプレゼントしてくれた。そうそう、この時、安倍邸の飼い犬がゲイリーのヴァイブに合わせてやたらと遠吠えをしていたっけなぁ。犬の波長とヴァイブの音色は犬に郷愁を呼び起すのだろうか、、、でもそんな事が納得出来るような郷愁に満ちたソロだった。ううん、どうすればこの楽器でこんなに優しさがかもし出せるんだろう。。。この時の同席者には帰国直後のマリンビスト吉岡氏もいた。氏も同じ安倍門下である。

さて、同じ時間帯に共演者のチック・コリア氏はどうしていたかと言うと、、、NHKが録画してデュオのコンサートを放映する為の編集作業に立ち会っているそうだ。ゲイリー氏曰く「僕はチックと全然性格が異なりドメスティックなのでそういうシリアスな現場には立ち入らないんだ。だからオフの今日はココで大いに楽しむ事が出来る」(笑)。
ひとしきりのヴァイブレクチャーが終わって皆でランチを食べながら歓談しましょうという事なった。直接話す最初のチャンスだ。そこで初めてゲイリーに向けた質問は次の通りだった。

「僕は子供の頃から貴方の演奏を聞き、そして今もヴァイブを演奏しています。今日はちょうどわからない事があって質問したいのですが良いですか?」。ニコリとゲイリー氏。「昨夜も共演者とこの議論になりました。スタンダード曲として貴方も演奏している“Here's That Rainy Day”の最初の8小節ですが、長調で演奏する人と短調で演奏する人がいます。私は原曲を知らないのですが、貴方がステファン・グラッペリーさんやスタン・ゲッツさんと演奏しているのは短調ですね? 宜しければその理由と冒頭の部分をどのようなコードで演奏しているのか教えて下さい」。
凄いペラペラじゃん英語ってこの時は留学生君に助けを借りながらだったから、そりゃ完璧でしょう(笑)

にっこりと笑顔で紙を取り出し次のように書いてくれた。

|| Fm  C7/E | Ab7/Eb  D7 | DbMaj7  Cm7 | Bbm7  Bbm7/Ab | Gm7(b5)  | C7(b9)  | FMaj7  | Cm7  F7 ||

「OK?」と渡してくれた紙を大切に鞄にしまって「ありがとうございました」と最大の感謝を述べた。

69年にアルバムを聴き始め、70年には影響されてヴァイブを始め、その後高校では音楽科に進みマリンバを始め、74年には大阪サンケイホールで初生を体験し、そして遂にこの時はやって来た。その間の12年間。実は楽器を始めた当初から「ヴァイブをやっていればいつかゲイリーに会えるチャンスが来るだろう」とデジャヴの如く密かに思っていたんだ。東京へ出て来たのもそういうチャンスに遭遇する事を考えての事だった。ああ、感動。人生最大の感動。東京進出バンザイ! めでたし、めでたし。。。

ってオイオイ、ココで終わったらそりゃ感動だろうけどバークリーに行った事とか、もっと他にあるでしょ、って?
うん。そうなんです。その後、運命の糸は少々からみながらも、着実にコマを進めるが如くにゲイリー氏との次なる遭遇に向かうのでした。しかし、この時は自分がバークリーで氏に習う事などこれっぽっちも予測する事なく、とにかく会えた事でバンバンザーーーイ!とかなりミーハーに軽やかに帰って行くのでありました。ホント、それは何処でどうなるか予測できるものでは無いから、人生は、、、、、、やはり何があっても楽しいのです。だからいつでも思いっきり自由に翔けてみましょう!
 [2004年10月27日記]


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★作曲しましょう

ちょっと前後するかもしれないけど、この頃から一つ決めて実践した事がある。それは作曲。
それまでに自作曲というものはあるにはあったが人前で演奏したのは高校の頃と大学の頃に少しだけ。あとはやりたいと思う人の曲やスタンダードをコピー(実は演奏する為に譜面が無かったから仕方なくという理由もあった)したりアレンジしたりが主だった。この頃深夜帰宅してヘッドフォンを付けてピアノに向かうのが楽しみになり、そこでオリジナルというものを作ってみようと思い始めた。

最初は小説家が「この文章は“は”で繋ぐか“が”で繋ぐか、ううん、これは如何に?」という調子でなかなか進まなかったが何日も一つの部分を「ううん。。」と考えるよりも、その日に感じた事を書いてみようと発想の転換に至ったところ不完全でも何かメモのような形でメロディーやコードを書き残す事が始まった。曲を作る時にいろんなアプローチを試みた。

風呂に入っている時に突然「お告げ」のようにメロディーとコードが浮かぶ→即効で風呂を脱出し五線紙に向かう→結果よく風邪をひく。

運転中にまたまたお告げがやって来る→携帯したカセットレコーダーに鼻歌のように吹き込んでおく→結果帰ってから再生してなんだこりゃ?。

寝ていて突然またまた再びお告げがやってくる→お、うんうん、こうだ、そうだ、イェ〜イと最後まで頭の中で鳴らす→よしよし、いいのがやって来たとばかりに起き上がって五線紙に向かう→結果最後まで頭の中で流れてしまったものは最後の部分ばかり再生されて始まりから二度と同じように思い出せない、、。等々、

紆余曲折の連続、しかもこれを客観的に見られると周りからは理解しがたい奇怪な行為である。直情的に向かっても良い結果は見えなかったので自分が落ち着く時間を見つけると深夜のヘッドフォンw/ピアノになったわけだ。
自分で音楽を想像する時に見えるものがあった。それは光景とか風景とかといった抽象的なものなんだけど、自分の体験した場面から来ているので人とか物に対してではなさそうなので、これを勝手に想像展開しても問題なさそうである。

画家がキャンパスに絵を描くのと同じで見たものを写真のように切り取るのではなく、ゆる〜く脚色した偶像を描くというのと同じかもしれない。最初の頃に一番悩んだのは「曲名」だった。一応出来上がったものには何か意図があるもので、それを第三者に伝えるには「言葉」という日常に載せるのが良いのだけど、これが意外と厄介。

「おいしい」とか「美しい」という印象をそのまま「この曲は“おいしい”を表現した曲です」とか「思わず“美しい”と思った光景を表現してみました」なーーんてやっても何がなんだかわからないデス。だって12個の音に香りや絵があるわけでもないし。

そこで天の邪鬼はクイズのヒントのようなものを曲名にする事を思い付いた。100人いたら100の個性があるんだから一つの言葉をまったく同じに受けとめてくれるとは思えない。だからヒントを出せば、何となく気付いてくれる人もいるだろう。。(後日ネットを介してリスナーの方とこの話しになって僕はヒントの事を“嬉しい錯覚”と表現した)

まあ、そんな感じで毎晩ピアノに向かう内に、先に曲名を作ってから始めたり、描きたいシーンを念じて(笑)から描いたり、写真やリトグラフをピアノに据えて眺めながら書いてみたり、出てきた一つの音やコードやリズムから書いたり、半月くらい放置してあったメロディーをブリッジにして作ったり、と、いろんな方法で作曲の動機作りを行いながら続けて行った。何となく自分の中で目標として「毎晩作曲、出来れば1日一曲、悪くても三日に一曲」。何が楽しくて風呂を中断してやってたのかはわからないが「浮かんだらその瞬間に書きとめろ!最後まで流れたら消えてしまうゾ」という強迫観念にも似た、一種の自己中毒だったのかもしれない。

そうこうする内に曲はどんどん溜まり、年間で200曲くらいになった。でもそれの全てが自分で納得出来る曲だったわけではない。不完全なもの、何かに似過ぎたもの、翌日冷静になったら大した曲では無かったもの、、でも中にはその時々で自分らしさみたいなものも、難産の上で成り立ちつつあったのは事実。頼まれもしないのに作曲で苦しんでドースル、そういう思いが無かったわけでは無いが、これはやっておいて良かったと思う。ま、若者よ練習せーよ、と言われても深夜に音が出せなかったから到達した苦肉の策ではあったが、酒飲んで寝てるよりは良かった、としておこう。それに何よりも実はその時間はとても苦しいが楽しかったのだ。ううん、、いわゆる快楽?にも等しいか。(爆)

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★忘れられない音楽仲間達-その1

そうこうする内に作った曲を人前でやりたくなった。よーーし、という気持ちよりもいやはや、これは恥ずかしいようなそんな気持ちがあったんだけど、そこは乗り越えておかなきゃなるまい。最初の頃人前で何が一番恥ずかしかったと言えば曲名を告げる時だ。「次はナニナニです」と言う時に額からタラーーリと暑くも無いのに汗が、、、(笑)。これも乗り越えなきゃなるまい、そう思ってやっている内に「いい曲ですね」とか「面白い曲ですね」とか言われるようになったらすっかり調子に乗ってそういう恥ずかしい行為を快感と思うようになってしまうところが今思うと情けないなぁ。。しかし、今でも自分の曲の説明となると困る。MCで20分くらい曲について喋れる村井君なんか尊敬しちゃうよ、まったく。

80年の後半はその為のリハーサルを多くやった。

そうそう、リハーサル場所と言えば、当時初台にあったライブハウス『騒(がや)』を何度もお借りしたなぁ。警察署の横のビルにあったんだけど、なぜか甲州街道に車を置きっぱなしにしても平和だった。

近くにパーキングが無かったのもあるかもしれないが、六本木『アルフィー』の時も(信じられないだろうけど)店の前に置きっぱなしだった。やはり隣は警察署である。ううん。。

80年代はギスギスしていたような気がしていたが、こんなところではまだ大らかだったのか? 今はパーキングに直行しましょうね。

『騒』に話を戻そう。営業の前にこの若輩者のリハーサルにお店を貸してくれたママさんは、いつも店の隅で開店の準備をしながら聞いていた。『騒』と言えばフリージャズの店として知れ渡っていたのになぜフリージャズでもないこの若輩者に貸してくれるんだろう? ある時ママに聞いてみた。「うん、そうね。アンタのは耳が疲れないからいいの。耳が疲れるのはゴメンよ」(笑)。不思議な『騒』の記憶、東京はいろんな個性がある街だ。

81年になってバンドのメンバーが変わった。オリジナルもやる為にいろいろな人と演奏する内に赤松(vib)石山経麻朗(g)高橋正(el-b)上野好美(ds)へと。またしてもリーダーは最年少バンドになってしまったが、このバンドでは大きな出会いが二人あった。
全ては書き切れないのが残念ながら若輩時代に影響を受けた共演者について少しずつ書いてみたい。

■石山経麻朗(いしやま・きょうまろう/g)
現在は新潟に戻ってギタリスト、音楽監督、学校経営と忙しい日々を送る石山氏を紹介してくれたのは前任のドラマー鈴鹿さんだった。オリジナルをやりたいという僕の方針を聞いて、彼なら、と紹介してくれたのである。

穏やかながら目が何かを物語る石山氏は当時30才、無例の理論派ギタリストでもある。この人の演奏から実に多くのハーモニーに対するアプローチを学んだ。そして何よりも自分のカラーを確立する為には欠かせない刺激をいつもバンドに持ち込んでくれる人だった。

僕の知ってる事はもちろん、知らない事も石山氏独特の持論を経て演奏で投げ掛けてくる。また精神論でもいつも議論に引き込まれた。一件自由奔放でいて、それで一つの法則で生きるミュージシャンとして最初に刺激を受けた人でもある。彼の住んでいた西新宿で飲みに行ったり議論の末に喧嘩したりというのもあった。どこでも誰とでも自然に馴染む経麻朗ワールドは僕にとって羨望の的でとても大きなものだった。精神論から音楽への結び付きというのは僕には無かったからかもしれないし、まだまだ子供だったのだろう。

■上野好美(うえの・よしみ/ds)
残念ながら上野氏はもうこの世にいない。しかし上野氏なくしては現在のリズムに対するアプローチ理念は成り立たない。

今から20年以上も前にルーディメントを発展させた天才ジャズドラマーが日本にいた事を書いておきたい。

上野氏を紹介してくれたのも前任の鈴鹿さんだった。「彼は新しい事をやってるドラマーだから」とドラマーが推薦してくれるのだから間違いない。当時彼がリズムを変化させてビートにスリルとハーモニーに匹敵するインパクトを齎した事でバンドのサウンドは劇的に変化した。変拍子ではなくフレージングでこの変化を作るというのは当時まだ一般的ではなかった。そしてそれを実現すべく、彼はドラムセットのありとあらゆるノイズを除去し発音をクリアーにする繊細さと、全てのパーツの音量を整える技術を身に付けていた。

僕も打楽器族に属す楽器なので彼の意図は大いに共感したし、ルーディメントとヴァイブのダブル&トリプル・ストローク奏法の共通する部分の開拓に着手する事となった。その為の曲を書く事は実にスリリングだったし、それが頭の中で描く以上のサウンドとなって彼のドラムから聞こえて来た時は感動的だった。悪戯好きの彼が演奏で感じた悪戯を形にする瞬間は唯一と言って良い恍惚感があった。

今、あの天才的な彼のドラムが聴けないのはとても寂しい事なんだ。

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★リーダーバンドで初ツアー1981春

[出囃子に乗って津山へ1981]
81年に自分のバンドで初ツアーをやった。このバンドではいろんな所へ行った。春には西日本をツアーした。夜9時に秋葉原に集合し上野氏の車に楽器を積み込んで夜の東名を西に向かう。道中上野氏が愛聴する落語のテープが鳴り響く。曰く「音楽を聴いてるとつい気になって事故をおこす」曰く「笑っていれば長距離なんてチョロイもんだ」。一同うなづく。が、しかし。一晩中大音量で鳴り響く落語はかなり強烈なものがあり、初日の津山に辿り着いた時はみんな出囃子ノイローゼになっていた。

会場の「500マイル」に入る前にしばし近くの児童公園で一休み、いや耳休め、烏のカァカァが心地よい。出発前に行った茨城県の鹿島でのライブには僕の車と2台に分乗してたのでこの顛末を知らなかったが、ベースの高橋氏が言ってた「うん。ちょっと疲れたよ」はこの事だったのか、、。(石山氏は僕の車だった)。高橋氏はちゃんと耳栓を持参していた!!。まだ出囃子がチャンリンチャンリンと響く中、会場でセッティング。サウンド・チェックが始まるとチャンリンチャンリンは徐々にアフタービートになった。やれやれ。

[四国で札幌ラーメン]

初日の津山は大盛況の内に終わり(この体験記でも出てくる津山「500マイル」は既に無いが04年10月の津山「邪美館」ライブで500のオーナー御夫妻が来られて懐かしい再会をした)、続いて四国は宇和島を目指す。これがまた長距離で今のように瀬戸大橋も高速も無い時代だから我々の一抹の不安は再び車のエンジンと出囃子に乗せてスタートする事になった。しばしの休息は宇高フェリーの1時間。カモメのカァカァと波の音が心地よい。四国上陸後は国道11号線をひた走る。途中新居浜の辺りで昼食という事になりどこにしようか?と思案する間も無く運転していた上野氏の一存で「札幌ラーメン」の看板の元に拉致される。曰く「全国何処へいっても迷ったらココ」。

氏は北海道出身であるからやむをえまい。が、数分後、氏は怒りに触れるのである。曰く「これは何だ?札幌ラーメンか?おかしい、この味は違う」。他のメンバーは「そうでもないよ、旨いよ」とズルズル。「いや、これは絶対に違う。こんな札幌ラーメンは無い!」と断言して店主と大喧嘩かと思いきや、全部平らげて「ごっつぉさんでしたー」と。。我々は肩透かしを喰ったんだけど、そこは上野氏「ぐっと堪えて俺も大人になったなぁ」(笑)と。しかしココを選んで我々を拉致したのは誰だ! うん、もぅー。

[不思議な瞬間との出会い1981宇和島]

四国路の春はお遍路さんである。白装束に身を包み「同行二人」と書かれた杖を持ちつつ麗らかな春の陽射しを浴びながら遍路するのであるが、われわれは依然として出囃子に包まれた同行四人衆である。朝9時に津山を出て宇和島に着いたのは午後5時になっていた。以前にも増して出囃子の残像に酔いしれる中、主催の喫茶「鈴」のマスター高宮さんに挨拶する時もやはり出囃子が鳴っているんだナ、これが、、、。会場にお借りした『旅』という店に楽器をセッティングし、今日はこのまま本番に突入する事になる。宇和島という所は愛媛の松山生まれでも案外縁が無かった。

しかし、ここのお客さんは何か反応が違った。演奏していると目の前にお客さんがいるような(実際そうなんだけど)そんな聴き方をされる。我々が「右〜」と言うとお客さんも「右」、「左〜」と言うと「左」に。会場全体が右に左に上に下に前後天地無用に着いてくる。そんな感じなんだ。それでいてソロチェンジの時の拍手なんか無い。静かなんだけど全員が遊体離脱(でいいんだっだケ?)して音と一緒に浮遊しているような不思議な感触があった。

それでいて最後に「セッションでもやりましょうか」と言った途端にトロンボーンやら何やら乱入(笑)で盛り上がる。本当に不思議で熱い空間が生まれた。終わった後の打ち上げで高宮さんにその事を話したら「あ、それはですね、ここらへんではこういう機会が少ないですから、そういう時に集中して聴く癖があるんですわ。クラシックでも何でもそうです」と。この時のツアーが切っ掛けとなって以来宇和島には何度もお邪魔する事になったが、高宮さんをはじめ皆さんとの交流はいつも発見を齎してくれる事に。何か一味違う香りのする街なんだよね。

[大いなる経験の地元松山1981へ]

さて、宇和島の翌日は地元松山へ。今日は松山のジャズ喫茶「モッキンバード」のママ大石さんが主催してくれるジョイント・コンサートだ。しかしジョイントのお相手が、あの向井滋春さん(tb)のバンドだ、と言うのでかなり慌てた。「それ、間違いでしょ?」って何度も確認。「前座だ前座、でしょ?」と言ってもyuriさん(大石さん)は「ジョイントよ」の一点張り。こんな上京1年そこそこの若輩者が相手で良いのかぁ?などと思いつつ会場となる南海放送の『テルスター・ホール』に入る。

こうなったら開き直りである。もう何も見えなくなるのが若気の至りでもある。チャンリンシャンリンと出囃子も鳴ってる事だし。僕らが着いた頃には向井さんのバンドのリハーサルが始まっていた。向井さん(tb)広木光一(g)佐山雅弘(kb)斉藤誠(b)トニー木場(ds)という面々。どちらかと言うとフュージョン・サウンドがビシバシ決まるバンドだった。

御挨拶もそこそこにこちらのリハーサルが始まる。若気の至りとは恐いもんで本番が始まるとバンドは明らかに普段よりもサウンドが炸裂している。力み過ぎか? まぁいい。思いっきりやりましょうや。そういう気持ちでかなり持ち時間も延長して終わった。それなりに聴衆にも受けていたし、これはこれで善しとしよう。うん。と、二部の向井さんのステージを会場で観に行って驚いた。リハーサルとうって変わってダイナミクスが大きい。来る時は来る、遠くの時は遠くに、、、目からウロコだった。そして周りの聴衆も明らかにヴォルテージが上がっていた。ううん、、やられたぁ。。、、、。ジャズは個人個人のプレイを活かすのだからとグループによる表現と言う事をあまり考えて無かったかも。。。

良い勉強になった。yuriさんはそれに気付いて「大丈夫、ちゃんと良かった、一部の方が面白かったって言う人もいたから」と優しく労いの言葉を掛けてくれたんだけど。打ち上げの会場で僕は言葉少な気だった。

向井さんは優しく「お互いバンマス同士で話そうよ」と声を掛けてくれたが頭の中は別の事に飛んでいて失礼ながら何を話したのかも覚えていない。佐山氏と話したのは覚えていて「僕は難しい事はなるべく簡単に、簡単な事はちょっと手を加えるがモットー」と言っていた。そうだよなぁ、難しい事を難しくされたら疲れるもんなぁ。納得。リーダーとして大いに考えさせられた公演だった。方向性というものも絞らなくては、、当時オリジナルがまだ少なくスタンダード、それにチック・コリアやスティーヴ・スワロウ、キース・ジャレットの曲などを交えながらやっていた。バンドとしてのトータルカラーを活かしたオリジナルの強化か、、、、。課題はまたまた山積みである。

[さらに珍道中は1981鳥取へ]

翌日は松山の小さなライブハウスでやり、打ち上げの席でちょっとした事件もあった。たいそうな事では無いがyuriさんがプレゼントにくれたJAZZロゴのカッターナイフを酔っぱらったI氏が冗談で振り回す内にU氏のジーンズを傷つけたのであるが、U氏は傷害事件だ、と言って譲らない。どーするこのツアー。半分は冗談なんだけど、事ある度にU氏は「この人は人を傷つけますからみなさ〜ん御注意下さ〜い」と返すのでI氏もキレかかっている。ふぁ〜、ってリーダーは余りにも子供じみてて相手してないんですケドね(笑)。さて、その翌日は鳥取に向かう。そう、懐かしいライブハウス『5ペニーズ』だ。四国縦断〜瀬戸内海横断〜中国山地横断である。

出囃子はドンド〜ン、シャンシャ〜ンに変わりつつも依然車内に鳴り響いている。I氏とU氏の関係はまだ修復されていない。『5ペニーズ』に着いたのは夕方だった。依然耳鳴り、元い、出囃子に乗せて(?)マスター峰さんに御挨拶。昔とは場所が変わっていて市内中心部にあった。

セッティングして本番。どうやらメンバー間のギクシャクは演奏にも反映されているようだが、これが意外や意外、慣れた曲でも普段とは違った緊張感を齎して演奏にスリルがある。わからないもんだ音楽は。普段にも増してリズミック・パラフレーズが炸裂する上野氏、それに対抗する石山氏。これはこれで美しい緊張感を持った音楽だとリーダーは思う事にした。

例によって最後のシメは当然「インプレッションズ」。この店のお約束であるが、これがとんでもないアップテンポになった。ううん、、まだ後ろで戦いは続いているようである。しかし、峰さんは「ええじゃないか、わしゃ気に入ったでェ」と。こちらは倒れそうに早かったんだけどね。それで打ち上げがあり僕も懐かしい人に会えたし、めでたしめでたし、のはずが、またまた戦争勃発。どうやら打ち上げの席でU氏が気に入った人と話せなかった事に腹を立てて、その人達と同席していた僕とI氏に攻撃が始まった。

ホテルはツインだったので二人ずつに分かれてチェックインしていたが、この組み合わせが悪かった。僕と高橋氏、U氏とI氏だったのだ。ホテルに先に帰ったU氏は怒りが爆発してホテルの廊下にI氏の荷物を全部投げ出していたのだ!

そんな事とは知らない僕とI氏がホテルに帰ると、、唖然としたI氏が「あれぇ?何で僕の鞄がこんな所にあるの?、レレェ?あ、ギターも、あ、私物が全部転がってる、あ〜、あいつだな、くっそぉ〜、バカヤロウ」とドアをガンガン叩く、U氏曰く「っるせ〜ェ、月夜の晩ばっかじゃねえゾ|」。名言かもしれない。。。I氏が仕方なく自腹で部屋を取ってその夜は事なきを得たが、、、。

[摩訶不思議な1981の峠を超えて姫路へ]

今日は今回のツアー最終地の姫路の老舗ライブハウス『ライラ』」へ。出発してから車内は一言も会話がない。無気味だ。チャンリンチャンリンという出囃子も鳴らない。こうなると日頃ノイローゼになりそうな鳴物が聞こえないのも、、無気味だ。ここまで晴天続きだったツアーなのに雨が降ってきた、、、さらに無気味だ。と、ある峠に差し掛かった時に、ふいに運転していた上野氏が口を利いた、いや、弱々しく何かに怯えているような感じて、、、「おい、何か感じないか?」僕、高橋「え、全然」石山「無言」。上野「さっきから何かに見られているように感じて気味が悪いよ」僕・高橋「え、そんな事ないよ、全然」石山「無言」。。。。

車を停めて上野氏はじっと周りの気配を探っている。僕と高橋氏は何も感じない。石山氏は黙って本を読んでいる。「あそこ、あの辺り、何か変だよ」とトンネルの入口辺りを指差す。「何も見えないよ」と僕・高橋。と、突然「そうか、やっぱり何か感じたか。僕もおかしいと思ってたんだ。ここは何かいるぞ」と石山氏。「だろ、だろ、そうだ、お前は解ってたんだな。あそこ、ほら」と上野氏。「あ、あそこにも」と石山氏。

何だかわけがわからん僕は「そう言えばこの辺りには落武者伝説があると聞いた事があるなぁ」と昔し津山時代に聞いた話をしたら、上野・石山「それだ、それ、それがあそこに見えるんだ! 早く行こうぜ」と一緒になって叫ぶ。
運転を僕に代わってそそくさとその場を立ち去る事にした。言われてみれば雨と風で木々が揺らぐ光景が一種の幻想を見せたのかもしれないが、この奇妙な目撃事件から急速にU氏とI氏が打ち解けて話しだしたのは(今さら伏せ字でどうする)、これまた不思議だ。前日までの戦争が嘘のようにペラペラ話している。

余りにも子供じみでいるが、ひょっとしたら、この最年少リーダーの困惑を読んで自ら打ち解ける切っ掛けを作ってくれたのかもしれない。ううん。。でもなぁ、この人達だからなぁ、、、(笑)。

しかし、姫路での演奏は前夜の攻撃的な演奏から打ち解けた会話になっていたのも事実。打ち上げでマスターと話してると「そういう話しはこのへんにはゴロゴロケありますワ」と。このマスターも初対面だったから不思議なオーラを持った人に感じたんだけど、いろいろと話す内にとてもホットな人である事がわかった。後日手記のようなものを依頼されて書いて送ったり記憶がある。

[初リーダーで思った事]

リーダーとしての初ツアーはいろんな事件やハプニングの内に終わった。しかし、冒頭でも書いたように、この二人の個性的なミュージシャンの力添えがなければステージもバンドも成り立たなかった。僕としてはあらゆる意味で刺激的な相手だし、それによって自分の音楽というものがあぶり出しにされたバンドだったと思う。ミュージシャンは子供のような感性で生きている、だから多少の脱線はリーダーは覚悟しなければならない。それは何物にも代えられない得難い音を発してくれるからだ、、、、。じゃあ、自分はどうか?って。ううん、、、自分が脱線するなんて思ってる奴がいないところがリーダーの悲しい性(サガ)かもしれない。現実から離れたところにいる住人である事を自覚していないのがリーダーという見方も、、、まぁ、あると言っても、、、、、、クレームはないかな。しかし、それらにも増していろいろな場所でいろんな人と巡り会うのが明日への活力。リーダーはそれを求めて前進あるのみ。そうなんデス。(当時の流行語)

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★忘れられない音楽仲間達-その2

その頃になると少なからずリーダーバンド以外にもライブに呼ばれる事が増えてきた。また、そういった色々な場所に顔を出すようになると「ヴァイブを教えて下さい」という人達も増えてきた。24才で教えられる事はまだまだ少ないが少しは経験もあったのでプライベートに教える事にした。世はフュージョン・ブーム、ヴァイブは相変わらず日影の存在だったが、海の向こうからは「ステップス」や「スパイロジャイラ」等、ゲイリー・バートンの次の世代が新しい音楽にヴァイブを引っさげて登場している時代だった。

旧知のT君が桐朋に在学していたので、マリンバの人達が興味を持ちアドリブに挑戦してくる。一般の人に加え、学生の伝え聞きで国立音大や武蔵野音大、上野学園からも習いにくる人がいた。 今でも時々ネットを介して懐かしいその頃の人達からメ−ルが届く。いろんな場所で頑張っているようだ。そして今でも同じように一般のミュージシャンの卵達や音大から通う人達がいる。みんなでもっとマレットキーボードの魅力と応用を広めよう。教えていると知らない間に自分が原点に戻っている時があるから不思議だ。でも、もう少し専門的で総合的に習える場所があれば、とも思うのだが、1人1人の個性とペースに合わせてやるのは学校形式では不可能に近いからこれでいいのかもしれない。その内にマレットキーボーダー専門の育成機関が出来れば別だが。

さて、1981年に戻ろう。そんな感じで昼は連日レッスン、夜はほぼ毎日ライブや演奏、深夜は相変らずの作曲が続いていたある時、電話が鳴って出ると『モッキンバード』のyuriさんからだった。「あ、この間のツアーではお世話になりました」と挨拶すると「元気ィ〜。みんな喧嘩してなぁ〜い?」(笑)。と、突然「今ねぇ東京にいるよ」。何とびっくり、実は前から電話でいろいろと話しをしていて自分も音楽を制作する側に付きたいという夢を持っていた彼女は着々と準備をして、今回は視察を兼ねて出て来たのだ。「会いにおいで」と言うので飛んで行ったのは言うまでもない。いろんな話しをして、そこで一枚のメモを渡してくれた「この人に電話しなさい。いい人だよ」。
その相手というのはピアニスト高橋佳作氏だった。

■高橋佳作(たかはし・けいさく/piano)

高橋佳作さんとの話し。
当時、佳作氏は何度めかのニューヨークから戻って来たばかりで、あちこちのライブハウスで活躍しとても忙しい人だった。そのバイタリティーはそれまでに見たミュージシャンの誰よりも積極的で、音楽の興奮をオーディエンスと共有する事に長けた人だった。僕のようにフラフラと田舎から出て来てノンベンダラリとやっているのとは違う、シャープに行動しつつホットな演奏とトークで周りを魅了する人だ。

佳作氏とは実にいろんな所で演奏した。そしてその殆どが佳作氏によるブッキングだった。

ある時、青山のライブバー『トランク』でデュオ出演の時に、「今度このデュオのデモを録音しましょうよ」と言うので、「いいですねぇ」と返した。何とかカントカっていう話しもしていたのだけれど、僕は次に演奏する曲の事で頭がいっぱいだった。その日演奏がはねてから赤坂に飲茶を食べに行った時も「あの、さっきの話しですけどお互いに1曲ずつ出し合うって事でもいいですか?」ムシャムシャムシャ、、「いいですよ」モグモグモグ、、と飲茶に夢中でとにかくムシャムシャパクパクの快諾である。

後日佳作氏の自宅で録音し、何とかという所にテープを送ると言うので「ホイホイ」と快諾して、再び日常に戻った。この頃、池袋に『デるブ』というライブハウスがオープンし、毎週末土曜日にオールナイト・セッションが始まっていた。

キャパは当時としては大きめで六本木ピットインを一回り小さくしたような造りだった。なぜこの店の事を知っていたかと言えば、yuriさんや周りのミュージシャンからの噂が絶えなかったからだ。

新しい店が出来ると若手が一気に押し寄せる。そんな時代だったが、僕はと言えばセッションとは無縁だろう、と思って過ごしていた。だって楽器を持ち込む作業は大騒ぎで、場所も取ってしまうからおいそれとは気軽にセッションに参加出来ない悲しい楽器の性。ところがある日佳作氏から電話が入り、このオールナイト・セッションのホストバンドで入るというのである。僕にとってセッションというのは初体験に近かったが、どうせ深夜は作曲しているのだし土曜の夜中は出掛けて演奏してギャラまで頂けるとはありがたい、と快諾。土曜の夜が楽しみになった。

「土曜の夜は、、」オールナイト・フジではなく『デるブ』高橋佳作オールナイト・セッション
午前0時を過ぎて要町の交差点で楽器を降ろす。午前1時スタートまでにセットアップする為だ。いくら子供の頃からの深夜族とは言え、この時間に演奏するのは初めてだ。

佳作氏は実に幅広い人脈を持っている。だからここでオールナイト・セッションをやる事をミュージシャンに告げると深夜の店は勢いお客さんとミュージシャンで満杯になった。凄い。

「さぁ、午前5時まで、今夜もノッてるゾー!」という佳作氏のMCに続いて熱狂の夜が始まる。次々に演奏帰りのミュージシャンが顔を出してはレギュラー・メンバーと交代する。やはりピアノが多いが、サックスやギターも次々に順番を待っている。もちろんボーカルも。しかし、ヴァイビストはゼロ。

ヴァイビスト人口を考えるとそうかもしれないなぁ。。。。しかし、その内に「アソコのセッションにはヴァイブがいて楽器がある」という噂が広まり、まず当時池袋で演奏していた出口辰治さんが帰りに顔を出すようになった。その内に板垣さん、藤井さん、有明さん、斉藤さん、、、回を重ねる毎にヴァイビストが顔を出すようになって思わぬ深夜のヴァイブ・サミットになる事も。

また、他の楽器との交流も盛んになり、いろんなミュージシャンと出会う他、中には急な仕事でメンバーが足りないバンマスまでメンバー探しに来るようになった(笑)。午前1時から延々4時間に及ぶ徹夜の響宴の最後はだいたいブルースで締める事が多かった。その頃になるといくら元気な若手とは言え意識がモーローとしてくる。

客席のあちこちには椅子にどっぷりと浸って爆睡しているミュージシャンもいれば、完全に酔い潰れた「ワシ、今夜ドーナッテモしらんケンネ」モードのまんま始発待ちに至るお客さんもいる。

様々な人の様々な喧噪と思惑に満ちた毎回満員の『デるブ』高橋佳作オールナイト・セッションはそうして終えんを迎える。やがて店内にJ・コルトレーンのバラッド「SAY IT (Over and Over Again)」がけだるい朝の吐息を助長させるかのように流れる時間となり『デるブ』は長い土曜日の終わりを告げる。今でもコルトレーンのバラッドを聴くと駆け出しの頃に触れたたくさんの初めてとその瞬間の空気を思い出す。それにしてこれだけの人を動かす佳作氏のパワーは僕にとっては驚異に思え、自らの道を開拓して行くこれからのミュージシャンの生き方を教えてくれた。



Sunday Afternoonという佳作さんの曲を覚えている。

僕の複雑な(と、言うよりも整理されてないアンバランスな)曲に比べてシンプルで無駄が無かった。
中野にあったライブハウス『いもハウス』で何度もデュオで演奏した。そうそう、この頃になると松山『モッキンバード』のyuriさんはしっかりと東京に出て来て、この『いもハウス』のブッキングを担当するようになっていた。

ある時、佳作氏が「この間のテープなんですけど、無事に通過しましたって」と。一瞬何の事だか忘れていた僕は、あのデュオのデモだという事を思い出した。「そりゃ良かった」と言う僕に「ついてはカクカシカジカで本選で演奏するんですけど、イツイツの昼間は空いていますか?」と。勿論空いていたので快諾。

で「場所って何処ですか?」と聞くと「六本木ピットイン」だと言う。うっひゃ〜〜!、

あの六ピとは、、。場所でキンチョーしてしまう。

当時佳作さんに誘われてサルサ・バンド(江尻時男さんというパーカッショニストのリーダーバンド)でも演奏していて、その中で六本木ピットインヘも出演が何度かあった。
だからそのバンドで初めて六本木ピットインのステージに立った時の緊張感はまだ忘れていないのだ。



これが「あの」六本木ピットインかぁ。当時はフュージョン全盛期、その中でも六本木ピットインは日本のフュージョン界の牙城として名だたるバンドが連日出演し、人気バンド出演の前夜には徹夜の行列の出来るミュージシャンにとっての憧れの店でもあった。
だから勝手に緊張してしまうのだ。
そこでナントカの関東地区本選とは言え演奏するのはプレッシャー。しかし、これも超えなきゃなるまい。よ〜し、やりましょう、と。。。しかし、この時点でもナントカの本選と言うくらい何の事だかよくわかっていないヴァイビストって、いったい。。

あれから23年後の2004年7月13日。
帰国後からレギュラー出演していた六本木ピットインが周辺の再開発の為に惜しまれつつも閉店

さようなら & ありがとう、六本木ピットイン

六本木ピットインが今月(2004年7月)で閉店する。1977年以来27年という老舗だ。ちょうどバブル景気華盛りの頃から何度となく噂されつつ今日まで存続していたが、遂にピットインのあるビルの取り壊しが決定し再開発が実施される事となった。六ピの愛称で馴染んだ六本木ピットインのステージに初めて立ったのは81年の事だからもう20年以上も前の事だ。数々の名演が繰り広げられている店に出るというのは、一種独特のプレッシャーを感じたもので今でもその時の事を鮮明に覚えている。ANEXの最終予選が行われたのもココだった。当時20代前半の若者(笑)にとってこの店の存在はとても大きかった。世はフュージョン全盛期、そんな時代の牙城としての凄みもあった。今日に至るまで常に良質の音楽を提供する事を主眼とした姿勢を崩さず、また帰国後は後に素晴らしい時間を共有する事となる多くの若手ミュージシャンともココで出会った。養父貴、新澤健一郎、村井秀清、村上聖、大島吾郎、等々、、挙げたら切りがない。飾らず、気取らず、そして何よりもミュージシャンにとって最良の場を提供し続けてくれた六本木ピットインに最大の感謝を贈りたい! そして新しい形で再び六本木の街にピットインの看板が掲げられるのを楽しみにしよう。  <Jul/8/2004>

pitinn7_13_2004.gif

さらば六本木ピットイン!!  ラスト・ステージの後で、、、2004年7月13日 at 須藤満『STEPS night』
左より宮崎隆睦(sax)村井秀清(p&kb)須藤満(b)赤松(vib)熊谷徳明(ds)
あれ? この構図は、、、と気付かれた方は大のSTEPSファンですね(笑)
忙しい撤収時間にも関わらずお店のスタッフも協力してくれてこのショットが誕生しました。
ありがとう六本木ピットイン!

・・・・・・・・・・・・・・・話は音楽体験記の1982年に戻ります。
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[Annex'82って何だろう???]

82年のある冬の日曜日の昼過ぎ、六本木ピットインの前に車を停めて楽器を運び込む。あの階段を降りている所までは覚えているが、セットした楽器を何処に置いて何番目の出番だったかまでは覚えていない。そして次に覚えているのは、あの階段を昇り目の前に駐車していた車に楽器を積込んでいる時の事だ。

ふと、我にかえると横で佳作氏が「ちょっと早くなりましたねぇ。緊張しましたか。でも大丈夫です。今度は日本青年館ですから、よろしく頼みますよ」とニコニコ。そして一瞬暗い表情で「でも、僕の曲じゃなくて貴方の曲が受かりました」と、、。しかしすぐに「な〜んて、ね」と笑う。

この頃からようやく何をやっているのか理解してきた(←無茶苦茶鈍感)。アン・ミュージック・スクールが開催するオール・ジャンルのオリジナル作品演奏コンペティション「Annex'82」の事だった。今日はその中の関東地区の本選だった。これを通過すると全国大会が5月に日本青年館であるという。

ちょっと自信を持った(←やっぱり遅い)。ミュージシャンのコンテストがあるのは知ってたがヴァイブ部門などあるはずも無く、僕には無縁と思っていた。またまた佳作氏によって初体験が増えた、いや、自己完結のヴァイビストが巣からあぶり出されたと言っていいだろう。
本気でAnnex'82って何だろう?????

『デるブ』の高橋佳作オールナイト・セッションでは実に多くの同世代ミュージシャンに出会った。その誰もに佳作氏は僕を紹介してくれて僕にとっては大きな交流が持てるようになった。セッションのホスト、レギュラーメンバーとしていつも顔を合わせていたのはラテン系のバンドで活躍するベースの五十川氏、横顔がキース・ジャレットそっくりのドラムの飯塚君や日高さん。殆どレギュラー状態だったギターの橋本氏、さらにボーカルのまりあさん、小林洋子ちゃん、西川さん、北山哲子さん(高橋氏の奥様)等、佳作氏とライブを通じて繋がる若手達が集結。

他は飛び入りの連続で仕事帰りでまだ演奏が燃焼していないミュージシャンや、夜中に街を徘徊するミュージシャン、サックスの植松さん、佐藤達哉氏、ドラムの森山さんなどベテランと、とにかく新人が入り乱れていた。そんな中でも個性にびっくりしたのがボーカルの加藤多聞氏でアル・ジャロウのようなボイスパフォーマンスで毎回客席を沸せていた。

ジャズセッションでありながらもチック・コリアのスペイン等当時の若手ミュージシャンが知る限りの新しいスタンダードも取り上げていたので入りやすかったのだろう。佳作氏は実に忙しく店内を駆け回り、ぞくぞくと飛び入りするミュージシャンを整理し、演奏し、ステージの進行を行う。こんなにいろんな事を同時進行出来るミュージシャンを見た事がなかった。そしてこれだけの様々な個性溢れるミュージシャンの演奏に直接的に触れられたのは佳作さんのおかげだった。
もちろんこの頃には「今度は日本青年館ですから、よろしく頼みますよ」という言葉の意味をしっかり焼付けていたのは言うまでもない。

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[オールジャンルのオリジナル演奏コンペティションだって?]

そうして向かえた「Annex'82」の当日。日本青年館にいた。簡単なサウンドチェックの後、ゲストのリハーサルが行われた。
ゲストとはファンク・ジャズ・ブームの台風の目であるジョ−ジ・デュ−ク氏。ショルダー・キーボードを引っさげてヘヴィーなファンク・ジャズをやっている。
一緒にやっているのは、当時売り出し中の「スクエア」。

あれ?

その中に見た顔がある。
バックステージで交換する時に「あれぇ?」「おやぁ?」「イェ〜イ」と言葉を交わす。キーボードの和泉氏だ。
先日ドラムの上野氏の引っ越しを手伝った時にピアニストとして紹介されたばかりだった。
彼は上野氏のトリオにも参加していた。
バタバタと本番(本選)が始まる。全国各地からジャズ、フュージョン、ロック、ポップスの次代を担うツワモノがオリジナルを引っさげて集まっているのだ。

特に聴いていて感心したのは関西から来たトンペッターのバンド。フュージョンに変拍子が実に巧妙に織りまぜられてスリルがある。
そしてロックバンドで北海道から来た「逆噴射バンド」。当時そう言う事件があり早速バンドネームに組み込むあたりはロックの王道でタダモノではない。
そして演奏も歌もほぼ同世代で別ジャンルの僕にも強くアピールするくらい素晴らしいものだった。

佳作氏とのデュオはロックバンドの後の出番だった。バタバタとしたステージ転換にも関わらずホールなのでピアノの響きも自分の楽器もクリアーに聞こえる。演奏したのは当時の僕のオリジナル「レモン・ドロップス」というワルツの曲だった。
ううん、、如何にも曲名で苦労している様が、、、(笑)。

しかし曲名の苦悩とは別に響きが聞こえるというのは随分リラックスして演奏できるものだ。久しくライブハウスしか演奏してなかったのでホールはとても気持ち良かった。ロックバンドの大音量の後でささやかな音量のアコースティック・デュオというのはどうなのかな?と少々心配していたが客席の反応は悪いものでは無かった。むしろ意外な程反応が良かった。どこかで「イェ〜イ」と叫んでいる奴もいた。佳作氏も終わってから「今日は落ち着いてましたね。良かったんじゃないでしょうか」と。楽屋で一息付いてから客席に戻って他の出演者とゲストの演奏を聴いた。
そして・・・・

「お待たせしました。結果発表です」という司会の声でホールは水を打ったように静まり返った。
僕の中では「逆噴射バンド」がイチオシである。
各部門ごとに賞が渡されるのかと思ったら、これは各部門の優勝者が競う総合グランプリなのでジャンルは関係ないそうだ。
あらま、こんな事までこの時点で解っていないヴァイビストって、いったい。。。。

それぞれの個人賞から発表となった。殆ど聴いたので「あ、あの人」「お、この人」みたいな感じでやはりロック、フュージョン部門からの受賞が多い。素晴らしい!! と拍手をしているとチョンチョンと肩をつっ突かれた。

「ふぇ?」って顔をしていると「呼ばれてますよ」と言う。

「はぁ?」と思ったが「ホラホラ、ステージに上がって」と。
何だかわけが解らずに客席を掛け降りてステージに上がる。
「おめでとう!」と司会者に迎えられて「ベストプレーヤー賞」というのをいただいた。
こういう時弱いんですよねぇ。ロックの人達なんかカッコ良く客席にピースとかポーズをして賞を受け取っている。ううん、、どーしよう、、

一瞬迷ったけど恥を捨てて客席に手を振ってみた。手を振るのは楽器を叩くのと同じだから照れ隠しでも何でもない。
また「イェ〜イ」って叫んでる奴がいる。かえって拍手に負けてこちらが照れる。。。ううん、、ジャズメンはシャイなのだ。だから地味がいい、、。

何だか知らないが汗をかいてる。続いて総合グランプリの前に本日は「審査委員特別賞」があると司会者。

「高橋・赤松デュオ」とコールされ、今度は佳作氏がステージに上がって来て並んだ。
「イェ〜イ」と満面の笑顔でハグしてくる佳作氏、この人の笑顔はいつ見ても僕を緊張から解き放してくれる。

そして「総合グランプリ最優秀賞」の発表。
やはり僕もイチオシだった「逆噴射バンド」。
みんなでエールを贈る。
当時ジャズをやっていて、しかもオリジナルで全国規模のコンテストなんて知らなかったヴァイビストは深々と佳作氏に感謝の念を送った。モノマネによるコンテストじゃないオールジャンルのオリジナル大会という場所に普段地味なヴァイブという楽器を引っ張りだしてくれたんだ。

最後に司会者が「今日はもう一つ特別な賞があります。ゲストのジョージ・デュークさんからのゲスト特別賞を発表します」と。

ファンクの神様からとは素晴らしい!! きっとあのファンク・バンドの人だろうな、と思っていたら、突然自分の名前が呼ばれてびっくり!

え〜っ、ファンクの神様と僕がどうしても頭の中では結び付かないままにフラフラとステージ上で微笑むデュ−ク氏とハグし賞をいただいた。

何だかよくわからないが、これは良い事だ!と必死で自分に言い聞かせていたのを覚えている。
気が付けば総合グランプリ6つの賞の内、高橋佳作さんとのデュオで3つを受賞しジャズ部門のグランプリになっていた。
いやはや佳作さんの采配に感服。
この受賞によって雑誌等でも少し名前が知られるようになったのは言うまでもなかった。

「次は何をしましょうか〜」と悪戯っぽく笑う佳作さんがとても大きく見えた。

演奏でリラックスという事の重要さをこの時に自覚した。ガツンガツンと自分の知ってる事を必死にやるんじゃなくて、周りを見回してその日の響きを感じながら気持ちを高める事、これがそれからの自分の課題にもなった。
作曲も同じかも知れない。リラックスかぁ。。。周りとの関係もそうだよなぁ、、

「笑ってる場合ですよ!」(当時の人気昼番組名)

[2004年11月20日記]